【双葉社】
『断鎖−Escape−』

五條瑛著 



 なにものにも束縛されることなく、どんな制約や責任からも自由に生きていく――ときに人々が、「自由」という言葉のなかに甘美な夢を見出し、そうした生き方に憧れのまなざしさえ向けることがあるのは、それだけ今の自分の境遇が、さまざまなしがらみや立場、人間関係といった面倒くさいものに縛られている、という自覚があるからに他ならない。だが、自由に生きることと、自分の好き勝手に生きることとは、似ているようでまったく異なるものだ。自由でありつづけることの本当の意味とは、誰にも、どんな組織や集団にも頼ることなく、たったひとりで生きていくということであり、それは自分に降りかかるありとあらゆる困難や苦悩に対して、ただ自分ひとりの力のみで対処していかなければならない、ということでもある。表面上は自由だと嘯きつつ、自分の都合の悪いときにだけ、誰かの恩恵にすがろうと考えているような自由は、自由ではなくただの自分勝手でしかないのだ。

 たとえば、私は日本国籍をもつ日本人であるが、それゆえに日本という国にいるあいだはそれなりの国民の義務をしょいこんで生きなければならない。言うなれば「日本人」という枠に縛られて生きることを余儀なくされているわけだが、逆にいえば「日本人」であることでそれなりの恩恵を受けていることもたしかである。最近、プロ野球の世界においても日本の選手がアメリカのチームに入団し、活躍することが多くなっているが、そんな彼らに人々が尊敬のまなざしを向けるのは、彼らが「日本人」という恩恵の通用しない地で、まぎれもなく自分の野球選手としての実力でのしあがっているのがわかるからだ。だが言うまでもなく、誰もが自分の力に絶対の自信をもっているわけではないし、そもそも人間は、ひとりで生きていけるほど強い生き物ではないはずなのだ。

 ――革命を起こさないか、この国に。

 こんな印象的な台詞からはじまる本書『断鎖−Escape−』は、おそらく今後の「革命」シリーズにおけるキーパーソンとなるであろうふたりの人物――相良亮司と「サーシャ」という記号で呼ばれる国籍不明の男――との出会いを描いた作品であるが、「自由」というものに対する夢と現実、という意味でこのふたりの登場人物の対比は非常に鮮やかなものであり、またそれゆえに象徴的でもある。

 おもに中国の資産階級や活動家を相手に、空路で日本や他の先進国への密入国を手引きするという、非合法の商売を請け負っている会社で、亮司は言葉たくみに市民の戸籍情報を入手し、密航者のための偽造パスポートを作成するという犯罪行為に手を染めていた。ともに教育者であり、また人格者でもあった両親に強く反発しながらも、どうしてもその存在によって縛られ、圧迫されているという意識から逃れることのできない亮司は、両親を殺してでも完全な「自由」を手に入れたいと渇望していた。じっさい、彼は一度父親を殺すつもりで包丁で刺し、重症を負わせるという事件を起こしていた。そして、亮司が殺したいと思うほど両親を憎悪するその背景には、凡庸ではあったが絵を愛することを知り、それを彼に教えた、ある画家の存在があった。

 そんな彼のもとに、「サーシャ」は運命のように姿を現わす。

 容姿、才能、経済的な力――他人が望んでも手に入れられないものを何もかも手中にし、また過去や家族、社会的地位、国籍からでさえ自由でいるように見えるその男は、まさに亮司が夢みていた「自由」の体現者であった。そして「サーシャ」は、亮司にある仕事を依頼する。亮司の両親を、亮司に代わって殺害し、彼に完全な「自由」を与える、という報酬を条件に……。

 夢を見ている目だ。
 亮司にはそう見えた。この目は、夢を見ている人間だけが見せる恍惚の目に違いない。だが、その目と引き替えに失ったものもあるはずだ。

 物語は、亮司たちが「学校」と呼ぶ、密航者たちにパスポート取得に必要な最低限の日本語をひそかに教える施設が何者かのグループによって襲撃され、亮司の雇い主であった催たちが失踪する、という展開を迎え、亮司は否応なくその裏にある複雑な事情に巻き込まれてしまう形となる。はたして「学校」を襲撃したのは誰なのか、催はどこに消えたのか、何の目的があって敵は催や亮司の居場所を探るのか――襲撃事件によってアメリカへの密入国を断念せざるを得なくなった、「お岩」や「まる子」と亮司が呼ぶ中国人女性や、彼が信頼を寄せている「先生」こと大川といった人物とのかかわりあいをつうじて、次第に亮司は、すべての謎が「暁光」と呼ばれる中国の伝説的活動家へと集中していくことを知る。こうした過程を見るかぎりにおいて、本書がミステリー的な要素の大きな作品であることは間違いないが、それよりも重要なのは、亮司がこの事件によって知ることになる「自由」であることの真の意味であり、自分も含めて真に「自由」たりえることのできない人間たちの脆弱さである。

 誰もが壮絶な過去をもちながら、その過去をどうしても断ち切ることができずにいる、という事実――亮司が憧れの眼差しで見ていた者たちもまた、いっけん「自由」を体現して生きているように見えても、けっして彼が夢みているような「自由」を謳歌しているわけではなく、またその「自由」のために、人間として恥ずべき裏切りも辞さず、屈辱も厭わないという痛烈な覚悟が必要である、ということを、亮司はその身をもって知ることになる。そして何より、自分が自由になりたいという、まさにその思いにこそ縛られていたのだ、という事実にも。そういう意味で、本書はミステリーやクライムノベルというよりは、むしろどんなに悪党ぶっていても、心のどこかで人としての夢や幸福を信じずにはいられないひとりの少年――もちろん、亮司は少年と言えるような年齢ではないのだが――の成長を描いた作品としてとらえるほうが、むしろしっくりくるものがあると言える。

 自分の自由を束縛するさまざまなもの――それは同時に、その人間が多くの縁で結ばれ、愛されているということの裏返しでもある。そうした縁や愛情といった、人間としてのあたたかさをすべて断ち切ってでもかなえたい夢をもつ「サーシャ」が語る「革命」とは、いったいどんなものなのか。物語は、まだはじまったばかりである。(2003.05.17)

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