【新潮社】
『愛の続き』

イアン・マキューアン著/小山太一訳 



 たとえば、「永遠の愛」という言葉がある。それは、たとえどんなことがあろうとも、変わらず特定の誰かを愛する、という強い決意を表わすものであり、それゆえに非常に甘美で魅力的な響きをともなう言葉にもなりうるものであるが、この世界に存在するすべてのものが有限という枠を超えられない以上、「無限」「永遠」といったものは、たんなる言語上のもの――「有限」「瞬間」の反意語的概念しかもちえないものだと言うことができるだろう。

 永遠に変わらないものなど、この世にはけっして存在しえない。人類の歴史は常に栄枯盛衰のくりかえしであったし、人も動物も自然環境も、この世に生を受けた瞬間から常に変化をつづけ、最終的には死を迎えることになる。ましてや人の心など、脆いものだ。ほんのちょっとしたすれ違いが原因で、愛は容易に憎しみに変わり、お互いの関係が決定的に凍りついてしまうことも、けっしてまれではない。だからこそ、恋愛という感情はひとつのドラマとなりえるのであるが、もし「永遠の愛」などという、異常なものが存在し、それを持ち得るものがいるとすれば、それはまさに、その存在自体が完璧なもの――神くらいのものだろう。

 本書『愛の続き』に登場するジェッド・パリーは、本書の語り手で科学ジャーナリストであるジョーに「永遠の愛」を抱いてしまった人物であり、本書はパリーの確信的妄想――ジョーは自分を愛しており、自分こそが彼を真実の愛へと導くことができるという、けっして揺るがない狂的信念がもたらす不幸と悲劇を描いた物語であるが、本来であれば「神」でしか持つことの許されない「永遠の愛」を、人間であるパリーがその身に宿してしまった、という側面から本書をとらえたとき、パリーとジョーが唯一、共通の視点から認識することのできる事件――不時着した気球を地面につなぎとめようとして失敗し、その結果としてひとりの人間が墜落死するという出来事が、たんにふたりを出会わせるためのイベントを超えた役割を果たしているのは、非常に興味深いことだ。

 ド・クレランボー症候群――パリーがジョーに対して抱いた、あまりにも強烈な愛の妄想を、ジョーは精神障害のひとつとして結びつけた。相手がどれだけ自分とその愛を否定しても、けっしてそのことを信用しないどころか、むしろ自分の愛が試されている、自分のことを本当に愛しているからこその行為であり言葉であると、自分に都合の良いように解釈してしまうパリーの妄想、何十回と電話をかけ、何十通と手紙を送り、ことあるごとに相手を待ち伏せし、その後をつけ、自分と相手との愛を確かめずにはいられないパリーの行動は、まさにジョーが知っている症候群の行動パターンそのものであることを、読者は本書の最後で確かめることになるだろう。そして、その結びつけはたしかに理性的であり、人々を納得させるのに充分な説得力を持つものである。

 だが、いっけん説得力のあるように思えるそうした論理も、よくよく考えてみると、パリーがなぜ「永遠の愛」に狂ってしまったのか、なぜ気球から落ちて人が死ぬという惨事がきっかけとなったのかについては、まったく説明に欠けてしまっている。本書の載せられているド・クレランボー症候群についての記述でさえ、「発症が突然であること」以上のことは何も書かれていないのである。
 事件にはきちんとした決着がつけられ、謎には論理的な解答が与えられ、読者はひとまずは納得してひとつの物語を閉じることができるだろう。だが、本書の真の主人公とも言えるジェッド・パリーだけが、物語から取り残されていることに気づいたとき、私たちは、ジョーの一人称による物語をなぞるだけでは、じつは物事は何ひとつ解決されないということを思い知ることになるだろう。

 前述したとおり、「永遠の愛」などというものはこの世に存在しない。その前提を無視し、ねじまげてまで、かりそめにも「永遠」を信じ込もうとするのは、たしかに尋常な心の作用ではあるまい。だが、私たちもまた誰かを愛するとき、その瞬間においては「永遠の愛」を信じていることを忘れてはならない。もっとわかりやすく言えば、誰も離婚を前提として結婚するわけではない、ということだ。

 ここでようやく、話は本書冒頭で語られる事故へと戻ることになる。瞬間的な突風に煽られて急上昇する気球――気球を地面につなぎとめようと駆け寄りながら、とっさにロープから手を離してしまった者たちに、おそらく共通して訪れた感情が罪の意識であろうことは、容易に想像できることだろう。ジョーも例外ではなく、自分がロープから手を離すことで生き残り、そのことによって真に勇敢だった男を死なせることになってしまったという「罪の意識」にさいなまれるが、ジョーには自分を愛してくれるクラリッサという美しい女性が――彼の罪を許してくれる他者がおり、また彼とともに気球にとりついた農場労働者たちには、「あれは不幸な事故だった、仕方のないことだったのだ」と自分を納得させるだけの強さがあった。だが、自分に許しを与える他者も、自分を正当化させる強さも持ち得ない人間は、いったい誰に自分の罪を許してもらえばいいというのだろう。

 キリスト教における「懺悔」は、こうした心弱き人間に神の名において許しを施し、そのことで人間性を回復させるという機能を果たす、一種の装置だったと言える。だが、神の力が絶対ではなくなった現代において、昔はありえなかったさまざまな精神障害が報告されているという事実を思うとき、本書におけるパリーの一連の異常な言動は、結果として自分の手で神を否定してしまった者が、必死になって神を信じようともがいているようにも見える。何度となく出てくるパリーの「宥してくれ」という台詞は、これまで自分のしてきた行為に対してではなく、すべてのはじまりだった、神を殺した罪に対して放たれていたのではないだろうか。

 京極夏彦の『姑獲鳥の夏』で、「たったひとりしか信者のいない宗教を狂気と呼ぶ」といった意味の言葉が出てくるが、そういう意味では理屈と知識によって物語を過剰なまでに飾りつけようとするジョーもまた、「理性」という名の宗教を信じるもののひとりであり、理不尽な出来事に対して無理やりに何かの意味づけをしようとする点で、彼もまたパリーと同様であると言えはしないだろうか。

 愛のない人間はたしかに不幸であるが、あまりにも過剰な愛もまたひとつの不幸の形であることを示した本書は、けっして誰が悪いと言うことのできない、現在の法体系の枠を越えたところにある人々の「罪の意識」に対する、まったく異なった「宥し」を得ようともがいた者の物語でもある。(2001.12.26)

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