【角川書店】
『雷の季節の終わりに』

恒川光太郎著 

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 あるひとつの事物に対する価値観というのは、国によって、時代によって、そして個人によって変化していくものであり、そこに「絶対」というものはない、というのは、少しでも歴史をかじったことのある方であれば理解できることだろうと思う。その事物本来の本質は変わっていないにもかかわらず、それに接する人々の判断がけっして一定しないという事実――それはけっきょくのところ、その国、その時代、そしてその個人にとって、対象となる事物がどの程度利用価値があるのか、有益なものとして作用するか、という一点につきると言える。牛がインドにとって神聖な動物として扱われているのは、そうすることで誰かが得をする、あるいはそうすることで社会がうまく回っていくという仕組みができあがっているからに他ならないのだが、そのことによって牛が牛であるという本質が変わるわけではないのと同じことである。

 未知のものというのはそれだけで恐怖の対象となりえるものであるが、これは逆にいえば、未知のものでさえなくなれば、そこに人間にとって有用かそうでないかの判断基準が生じる、ということでもある。私たちの生活のなかには自動車やテレビや電子レンジなど、生活を豊かなものにしてくれるものに溢れているが、私たちは自動車なりテレビなりの構造をかならずしも理解しているわけではなく、また電波がなぜ映像や音声を伝達するのかといった本質的な部分を解明しているわけでもない。だが、その使い方さえ誤らなければ、自動車もテレビも誰もが使える便利な道具となる。じっさいのところ、私たちの身のまわりにあるものにしたところで、不思議なもの、解明できていないものは意外と多い。そしてその事実に対してどのような反応を示すのかは、人それぞれである。

 本書『雷の季節の終わりに』という作品には、「穏」という名の架空の土地が出てくる。地図にはもちろん、一般の書物のなかにもいっさい記されることのないその土地は、私たちがよく知る世界とは隔絶された場所で、良くも悪くも時代の影響を受けることも、科学技術の恩恵をあずかることもなく、ただ穏やかに時間が過ぎていく、どこかの田舎を思わせる土地である。一人称の語り手である少年賢也は、当初こそこの土地になじめずにいたが、穂高や遼雲といった友人を得て、少しずつ自分の場所を広げていく。だが同時に、自分という存在がこの土地に根付いていない、他の「穏」の子どもたちのように、拠り所となる血のつながりが自分にはないことを自覚すようにもなる。彼には、小さい頃の記憶が曖昧で、身内と呼べる人がひとりもいなかった。

 ふつうの人たちの目からたくみに隠された、その存在が確認されていない秘密の場所、という意味では、「穏」とは日本でいうところのマヨヒガや竜宮と同じ、ある種のユートピアとしてのイメージを色濃く残している土地でもある。だが、少なくとも賢也の目から語られる「穏」は、けっしてユートピアという言葉が内包している幸福やのどかさ、理想郷と呼ばれるようなものとは裏腹の性質をしだいにまのあたりにしていく。「雷の季節」と呼ばれる五番目の季節、その季節によくおこる神隠しの噂、そして、かつていたはずのたったひとりの姉が、じっさいに何者かにさらわれて行方不明になってしまったという事実と、それと呼応するように賢也にとりついてしまった異質な妖怪「風わいわい」――やがて物語は、賢也自身がもともと「穏」の外から来た人間であるという事実を経て、とある事件をきっかけに「穏」を逃げ出さなければならなくなるという事態へと発展していくことになる。

 本書は実質的に、賢也を中心とする物語の流れとは別に、佐竹茜という少女を主体とする三人称の物語が展開していく。舞台となるのは「穏」ではなく、日本のどこかの街であり、彼女は血のつながっていない母親からの精神的虐待の対象とされていた。ある日、激昂した母親に殺されかけた茜は、たまりかねて家を出るのだが、とくに行く当てもなく街をうろついているところを補導員を装った人物につかまって、そのまま見知らぬ土地へとつれていかれてしまう。

 このふたつの物語がどのような関係をもち、お互いにつながりをもつことになっていくのか、という点が本書の醍醐味であり、それまで貼られていた複数の伏線が物語の最後に次々と解消されていくという構造は、著者の前作である『夜市』も同様であるが、このふたつの物語に共通しているのは、賢也にしろ茜にしろ、それまで慣れ親しんでいた土地を離れなければならなくなる事態におちいってしまうという点だ。だが、それとは別にもうひとつ重要なのは、「風わいわい」と呼ばれる、目に見えない異形の存在がふたつの物語のなかではたすことになる役割である。

 茜が親友である伊藤詩織から聞いた「風霊鳥」にとりつかれたという話は、彼女の心に強い印象を残すことになった。その怪談じみた話が茜の心をある種魅了することになったのは、彼女が自身の置かれている境遇に理不尽さを感じているからに他ならない。いっぽう「風わいわい」にとりつかれた賢也は、「穏」にとどまることができなくなった原因のひとつである「風わいわい」が、しかし一貫して彼の命を守るために力を貸してくれているという事実を認めざるを得なくなっている。「風霊鳥」も「風わいわい」も、いずれも同じ存在を指す言葉であるが、彼がどのような存在で、何のために人にとりつくのか、という点については、どちらの世界の住人にもはっきりとわかっていない。そういう意味で、風わいわい、あるいは風霊鳥と呼ばれる存在は、いずれの世界においても異質なモノであり、そうである以上、恐怖を呼び起こすものだと言うことができる。

 君は呪いじゃなくて――祝福の象徴。誰よりも深いところにいる親友。
 (いいえ)風わいわいはやさしくいった。
 (人にとって、やはり私は呪いなのです。いずれは腐敗を呼び、災厄の源となる。だからこそ、いつか空に呼ばれれば、お別れです)

 この世ならざるもの、私たちの世界では測り知ることのできない事象というのは、得てしてそれに関わった人たちを不幸にする。それはたしかに真実であり、本書においてもその力を悪用した者はそれ相応の報いを受けることになる。だがそれは、あるいは私たちの身のまわりにある、たとえば自動車やテレビや電子レンジといったものも、じつのところたいした違いのないものなのかもしれない、と思わせるものが、本書のなかにはある。自動車だって、使い方を誤れば動く凶器と化す代物であるということを、私たちはもっと自覚するべきなのかもしれない。(2007.08.14)

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