【講談社】
『ここに地終わり海始まる』

宮本輝著 



「言葉は不完全なコミュニケーションの道具である」というフレーズは、私の書評でよく使われる常套句のようなもののひとつであるが、たとえば「りんご」という言葉に対するイメージが個々によって微妙に異なっていて、そうした違いの連続が、ときに非常に大きな情報の齟齬を引き起こしてしまう、という意味ではたしかに言葉は不完全ではある。だが、逆に不完全だからこそ、私たちは言葉というものに対して自由な想像力をはたらかせることができると言うこともできる。そして、コミュニケーションというものが、相手のことを思いやる想像力を前提とするものである以上、言葉は想像力の産物であり、また想像力なくして言葉は存在し得ないものではないか、と最近になって思うようになっている。

 私が本書『ここに地終わり海始まる』を読んでまず思ったのは、そうした言葉が持つ不思議な効力についてだった。なぜなら、たった1枚の絵葉書に書かれていた言葉が、18年ものあいだ天野志穂子を苦しめていた結核を追い払い、一生無理だと思っていた「普通の日常生活」ができるまでに彼女の体を回復させたのだから。

 本書のタイトルにもなっている「ここに地終わり海始まる」という言葉は、ポルトガルのロカ岬にある石碑の文句であり、まさに志穂子に奇跡をもたらした絵葉書に書かれていたものでもあった。だが、その差出人である梶尾克也は、志穂子にではなく、まったく別の女性に送るつもりでその絵葉書を投函したのであり、しかもそのあやまちにすでに気づいている。

 この梶尾克也という男、もと<サモワール>という人気コーラスグループのメンバーのひとりであり、一時期はグループのなかではスター的存在だった樋口由加と恋仲だったこともあることから、それなりのプレイボーイであることには間違いないのだが、つらいことや苦しいことに真正面から立ち向かうのではなく、衝動的にどこかに逃げ場所を探してしまう、どこか優柔不断で自分勝手なところのある男でもある。志穂子の元に届いてしまった絵葉書も、けっきょくはそんな克也の「逃げ」の姿勢がもたらした産物でしかなく、しかも彼はそんな自分のあやまちをみずから正そうとせず、うやむやなまま放りっぱなしにしてしまっているのだ。

 18年ものあいだ、病院という特殊な閉鎖世界のなかで育ったがゆえに、どこか浮世離れしたところのある、思慮深い、ことさら自分の感情というものを押し隠そうとする志穂子と、芸能界という悪徳の世界でさんざん汚されてしまったあげく、仕事にも恋愛にも、そして将来のことにさえ逃げ腰のかまえを解こうとしない、自己中心的で小さなプライドにばかりこだわっている克也――このふたりを中心に、周囲に克也の友人である尾辻玄市や、志穂子のはじめての友達となる伊達定子といった、恋のライバル的存在である人物を配し、人と人とが関係することによって生じる微妙で複雑な心の動きを描いていく手法は、『青が散る』をはじめとする著者宮本輝の得意とするものであるが、本書のもっとも大きな焦点は、やはりあの一枚の絵葉書ということになるだろう。それは、由加と別れて意気消沈の克也が、ほんのちょっとしたその場の気分で書いたはずのその絵葉書が、志穂子の病気を回復させる奇蹟を生み出すという設定を、なぜこの恋愛物語にとり入れなければならなかったのか、という疑問でもある。

 少し話はずれるが、インターネットというのは、ある意味では文字だけの世界であり、当然のことながら面と向かって人と話すのとは勝手が違う。掲示板などの書き込みで、「なかなか自分の思うところが伝わらない」と思っていた頃が私にはあったのだが、そんなとき、ある友人がこんなふうに言葉を返してきたのを覚えている。「文字だけだからこそ、その書き手の無自覚な思惑が垣間見えることもある」と。

 不完全なコミュニケーションの道具であるはずの言葉が、思いもよらないその人の無自覚な部分を露呈する、という事実――奇しくも志穂子は、絵葉書を読んだときの心の変化を「無自覚な部分での歓喜」と呼んだが、それと同じ心の変化が、かつてロカ岬に立った克也のなかにも起こったのだとするなら、どういう経緯であれ、その絵葉書はたしかに、本人たちさえ知らない共通項を見つけ出したことになるのだろう。そして、同じ想いを共有している、という意識が、恋愛感情にまで高まったとしても、それはけっして不思議なことではないはずだ。

 奇蹟は起きた。そのたしかな事実について、志穂子も克也もそれぞれ思いをめぐらせる。すべては、そこを出発点としているのだ。そして地が終わり海が始まるロカ岬の碑文のように、ふたりもまた何かに終止符を打ち、新たな何かをはじめるために動き出す。志穂子は退院のリハビリのような生活から、本格的にこの世界で生きていくために、そして克也は、それまでの逃げてばかりの人生にけりをつけ、自分以外の誰かと幸福をともにするために。

 そういう意味で、本書は志穂子が一般社会のなかで確固たる自己を築いていくための物語であると同時に、克也が人間として大きく成長するための物語でもあったと言える。まるで、お互いの性格を分かち合うように変化していくふたりの心情――その心の動きは、しばしば美しくも荒々しい自然とともに語られていく。夜の海辺、濃い霧の中、そして荒れ狂う越前岬――そのダイナミズムはさすがだと言わざるを得ない。

 人間とはちっぽけなものだ。ささいなことに悩み、苦しみ、数多くのあやまちを繰り返しながらも、それでも明日を信じて生きていく。本書の登場人物たちは、けっして強いわけではない。しかし、言葉がときに思いがけない力をもたらすことがあるように、彼らもまた、ときに生の強い光を放つことがある。生きること、死ぬこと、そして人を愛すること――人間というのは、なんと不思議で魅力的な生き物なのだろう、と思わずにはいられない。(2001.12.18)

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