【早川書房】
『Y氏の終わり』

スカーレット・トマス著/田中一江訳 



 以前紹介したアダム・ファウアーの『数学的にありえない』のなかで、人間の思考についての言及があったことを覚えている。それは、私たちの生きる現実世界のなかでは、アインシュタインの相対性理論によって何者も光速を超えることができないとされているが、唯一それを超えるものが人間の思考だというもので、その設定はこの作品の根幹に大きくかかわってくるものでもあったりする。なぜなら、光速を超えるということは時空を超えることと同義であり、もしそうであるとすれば、人間の思考というものが、私たちの考える時間の概念――過去から現在を経て、未来へと流れていく不可逆的なもの――にはあてはまらないたぐいのもの、ということになるからだ。

 ところで、どうやら光速をも超えるらしい人間の思考とはいったい何なのか、と考えてみると、私たちは意外にその正体についてよく知らないことを思い知ることになる。私たちはじつにさまざまな事柄を考えるが、その思考はたとえば無から生まれてくるものなのか、そして一度発生した思考はどうなるのか。人間がその五官を使って見聞きしたことは、ただ思い出せなくなるだけで、けっして消えてなくなるわけではない、という話を聞いたことがあるが、であれば思考もまた同じように、霞のように消えてしまうわけではなく、その人の頭の中か、あるいはどこか別の次元に情報として保存されているはずだ、と考えることもできる。真実がどうなのか、私たちには知りようもないことであるが、ひとつたしかなことがあるとすれば、私たちは言葉を使って思考するということである。

 あるいは、思考とは言葉だと言い換えることもできるかもしれない。そして私たちは言葉を使って、この世界のあらゆるものを定義してきた、という事実を考えると、この世界で私たちが認識できるのは言葉によって定義されたもの、記号化された世界であって、その定義された対象そのものにはけっして迫ることができない、ということにもなる。言葉は物質であろうと思考や感情であろうと定義し、記号化する。であれば、記号化された対象というのは、じつのところ物質であろうと思考であろうと同じものであったとしても、私たちにとってさほど不都合なわけではない。極端な話、世界が言葉以外に何もない、空っぽのものであったとしても、現代思想的には問題ないことになる。

 本書『Y氏の終わり』というタイトルは、じつは作中に登場する書籍のタイトルにもなっている。1893年にトマス・E・ルーマスによって著されたその小説は、小説というよりは、自らの哲学的思想を形にするための実験という側面の強い作品だと言われ、また、その出版後に著者自身もふくめた関係者全員が死亡したことから、「呪いがかかっている」という噂もある本である。雑誌のコラムに書く記事の取材の過程でルーマスに興味をもったアリエル・マントは、ほぼ唯一といっていいルーマスの研究家であるソール・バーレム教授にその才知を見初められ、大学の博士課程にスカウトされたという才女だが、たまたま立ち寄った古書店で彼女が見つけたのは、他ならぬその『Y氏の終わり』だった。

 現在ドイツの貸し金庫に一冊あるのみだと言われている伝説の本の秘密と、その本を手にすることになったアリエルの遍歴を描いた本書において、じつのところ軸となるストーリーのようなものは、あるようでいてほとんど意味をなさないものとなっている。それどころか、無理にストーリーを追おうとすると、下手な通俗小説のたぐいに陥ってしまいかねないものがあるのだが、本書の本質はそうしたところにあるわけではない。じっさい、本書序盤における謎である『Y氏の終わり』という本の秘密については、著者ルーマスによって「トロポスフィア」と名づけられた独自の世界への扉を開くための方法が記されている、というもので、「呪い」の件も、またバーレム博士の突然の失踪も、その独自の精神世界がからんでいることがあきらかになるのだが、それが判明した時点で、『Y氏の終わり』というアイテムの役割はほぼ終わったと言うことができる。

 人々の思考が物質化し、当人の暗喩という形をとって形成される「トロポスフィア」をとおして、アリエルは他人の思考にジャンプしてその内容を閲覧するという体験をする。現実世界における距離や時間といった概念を超越し、過去を遡及してその人の思考に影響をおよぼすことさえできるという、ある種の広大な思考のネットワーク世界とも言える「トロポスフィア」――その世界に魅了されたアリエルが、人から人へと思考を遍歴していくことによって、はたしてどのような真実をまのあたりにするのか、そして彼女自身の個性がどのような変質をとげていくのか、という点こそが本書の主題である。そういう意味では、本書そのものがひとつの思考実験であり、また物語と哲学との融合という意味では『ソフィーの世界』を彷彿とさせるものがある。そして、本書が一種の思考実験であるとすれば、重要になってくるのは、その中心にいるアリエルというひとつの個性が、どのような性質をもっているかということになる。

 神は存在するのか、祈りとは何で、どんなものを生み出すのか、世界の成り立ちはどうなっているのか、そしてそんな世界のなかで、他ならぬ私という個が生きていることに、どのような意味が与えられるのか。本書はしばしば、アリエルという登場人物をとおして哲学的な問いかけを投げかけていく。それこそビックバンから量子力学の世界まで、科学から宗教にいたるまで、さまざまな分野を媒介として、非常に哲学的な思索を繰り返していくのだが、それはけっきょくのところ、私たち人間が認識する世界の真実を追求することに他ならない。アリエルという女性は性的に奔放なところがあり、ときに純粋にセックスのためだけに男と寝ることもあるが、それはけっして彼女が淫乱であるということではなく、さまざまな事柄について好奇心が強いという側面を強調するものとして書かれている。そして、彼女はけっして頭が悪いわけではない。相対主義を基本とする現代思想についてもその本質を理解できる頭をもつがゆえに、本当にたしかなもの、完全な同一性をたもつものなど何ひとつなく、世界の認識は差異やズレにすぎないというデリダの思想に傾倒してもいける。だが、仮に世界が言葉すぎないと理解できたとして、そこに私たち人間のどんな救いがあるというのだろう。

 無というものを追求していくようになったバーレム教授、神父でありながら信仰心の薄れをどうすることもできず、宗教から離れてしまったアダム、人類共通の先祖の実存を証明しようとするヘザーなど、本書に登場する人々は、いずれも相対主義の時代において、それでもなおたしかに信じることができるものを求めて真剣に考え、思いを巡らし、悩みを抱えて生きている。そんななかで、それでもたしかなものを追求していくとすれば、それは相対主義そのものを超えていくことを意味する。そして本書は、人々の思考という概念に注目した。それだけでも特記すべき作品だと言うことができる。

 ネズミの神様が登場してアリエルを助けたり、同じように「トロポスフィア」の存在を知る男たちに追われたり、といった物語的な面白さもなくはないが、重要なのはアリエルの精神の遍歴の先にあるものだ。ときにネズミと同化して妙にネズミに同情的になったり、つらい恋愛をしている少女の精神と同化して、さりげない優しさを示したりする彼女が、最終的にどのような思考を真実のものとして見定めることになるのか。現代のあらたな神話創生ともいうべき「トロポスフィア」の、そして世界の成り立ちについてぜひとも見届けてもらいたい。(2008.07.01)

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