【講談社】
『記憶の果て』

浦賀和宏著 
第五回メフィスト賞受賞作 



 かの三島由紀夫は『仮面の告白』という自伝的小説のなかで、自分は生まれたときの記憶をはっきりと覚えている、といったことを語っているが、脳の神経回路が完成していない、生まれたばかりの赤ん坊というのは、当然脳の記憶領域についてもまだまだ未熟な生き物であって、そんな頃の記憶をヒトとして意識できるはずもない、というのが生物学的見地だと言われている。少なくとも、私は生まれたばかりの頃について、いっさいを覚えていない。それは、たとえば私が胎児だった頃の記憶、さらにはそれ以前のものだった頃のことを覚えていないのと、基本的には同じことであり、脳のニューロンが複雑な神経回路を形成していくことが、ヒトとしての自意識を生じさせ、記憶をつかさどっていくという論のひとつの裏づけにもなっている。

 だが、そうした論が科学的根拠のあるものだとして、だから何なのだ、という見方もある。人間はどうあがいても自身の主観から逃れることはできないし、私たちが見たり聞いたりしているものは、しょせんは私たちの脳が外部からの刺激をもとに再構成されたものでしかない。それは、百人いれば百通りの真実がある、ということを意味する。もし三島由紀夫が、生まれたばかりの頃の記憶をもっていたというのであれば、それは彼にとっての真実であるし、三島由紀夫ではない私たちにその真偽を確かめるすべはない。私たちにできることといえば、せいぜい言葉によるコミュニケーションを駆使してお互いの共通認識を深めていくか、あるいはどこかで妥協点を見出すことくらいのものである。

「確認は……出来ないと思う。しかし感じることは出来る。例えば私には君に意識が宿っているのかどうかは分からない。でも私はチューリング・テストによって君に意識が宿っていると感じている。だから君には意識があると、そういうことでいいんじゃないかな」

「親父が死んだ。自殺だった」という文章からはじまる本書『記憶の果て』は、その自殺した男の息子である安藤直樹を一人称の語り手として物語が展開していく。父親の浩は人間の脳にかんする研究者であったが、自殺する前夜もこれまでとまったく変わったところはなかった。残された遺書もあまりに抽象的で、なぜ自殺したのかという疑問に答えてくれるわけではない。自殺の原因についてまったく思い当たらないという直樹や母親の困惑をよそに、父親の通夜や葬式は滞りなく進んでいく。

 当初、直樹の思考は「父親はなぜ死んだのか」という点に絞られている。だが、その疑問は物語の比較的初期の段階で、早々に棚上げされてしまう。なぜなら自殺というのは、犯人と被害者が同一人物であるということであり、被害者とともに犯人も死んでしまった以上、「なぜ死んだのか」という疑問は永遠に闇のなかであることに直樹は気づいてしまうからだ。その代わり、彼の興味は父の書斎に置かれていたパソコンに向けられる。より正確に言えば、そのパソコンのなかにいる「裕子」という擬似人格への興味である。モニターを通した言葉のやりとりで、まるでそこにひとりの人格がいるかのように対話が成り立っていく「裕子」は、直樹の父が自殺することを本人から聞かされて知っていた。

 はたして彼女は何者なのか。ただのプログラムにすぎないのか、それとも何らかの意識をもった存在なのか。だとすれば、それは父親の研究の成果ということなのだろうか。同じ高校の友人ふたりを巻きこんで、このコンピュータのなかの存在が何なのかという謎を追究していく形で物語が進んでいく本書であるが、本書で注目すべきなのは、ほかならぬ直樹自身が、「裕子」の正体についてはっきりさせること――彼女がただのプログラムでしかないのか、あるいは人間と同じように意識をもっているのか、白黒つけることに積極的ではない、という点だ。というよりも、友人の金田忠志の言葉を借りるなら「裕子のことが好き」になっている直樹は、彼女がちゃんとした人格をもつ者であることを信じたいと思っている。そういう意味で、彼はミステリーでいうところの探偵ではない。その役目を担っているのは、むしろ金田のほうだと言える。

 本書にはミステリーの定番に対するアンチテーゼとしての要素がある。ミステリーのはじまりにおいて殺人事件があるように、本書でも直樹の父親が自殺する。だが、そのあとに起こるのは死の真相を求めることではなく、通夜や葬式といった一連のごたごたであり、葬式にやってきた浅倉幸恵の姿を見て、過去の苦い思い出にふけったりすることだったりする。そして、「裕子」の正体を探るさいに出てくる人間の脳の話や人工知能にかんする知識は、人間の自由意思や実在といった、私たちがふだん確かなものだと信じて疑っていない事柄に揺さぶりをかけ、真実というものの曖昧さを露呈させる。ミステリーが隠されたただひとつの真実を明らかにするという過程を描くものであるとすれば、本書の流れはことごとくその逆を行くことになる。

 萩原は言った。脳の数だけ世界はあると。
 人が一人死ぬということは、世界が一つ終わるということなんだ。

 直樹は現在、高校を卒業したばかりであるが、まだ大学生になっていない状態であり、いわば何の肩書きもない「安藤直樹」という唯一の存在である。父親の死、そして「裕子」の謎を追っていた彼の視点は、思いがけずあきらかにされるいくつかの秘密を経て、自分の内側へと向けられていく。上述したように、自殺した父親が何を考え、なぜ死んだのかというのは、死んだ本人にしかわからない。同じように、父親の書斎に置いてあったパソコンと、そこにいる「裕子」のことについても、できるのはもっともな憶測を並べていくことだけであり、それは言ってみれば、真相の周辺をぐるぐる回っているような状態だ。金田はたしかに探偵役としては適任ではあるが、直樹や飯島哲雄にとって彼の理路整然とした言葉の羅列は、「屁理屈」の域を出ない。彼にも真実は何なのか、わかってはいないのだ。だからこそ、自身の内側へと深く深く潜りこんでいく直樹のベクトルに大きな意味が現われてくる。

 脳の数だけ世界があり、真実はそれぞれの思いのなかこそある、というのは、ミステリーからすれば暴論以外の何ものでもないのだが、このけっして短くはない物語を読み進めていくと、それ以外の結論はない、という方向に読者はたくみに誘導されていくことになる。そのためにこそ本書が書かれたというのであれば、それはたしかにひとつの成果だと言わなければなるまい。(2007.12.03)

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