【集英社】
『終末のフール』

伊坂幸太郎著 



 たとえば、私はこの世にある物語的要素が好きであり、だからこそ私は、できるだけ多くの小説を読んでみたいと思っているし、またそれらの小説を読んだ自分がどんな感想をもち、あるいはその小説のなかに込められた想いは何なのかを考え、書評を書きあげるという行為に没頭してもいる。なにより「物語」というものに傾倒してしまう自分の心に偽りはない。だが、そんなふうに前へ前へと突き進んでいる最中であっても――あるいは、だからこそ、というべきなのか――ふとした瞬間に、自分は本当にこんなことをしていていいのだろうか、と考えてしまうことがある。

 人生はけっして無限ではないし、私自身もいずれ年老い、無理のきかない体になっていく。私は本当に自分の人生を有意義に活用しているのか、本なんか読んでいる場合ではなく、もっと他にやるべきことがいくらでもあるのではないか、という焦りにも似た思いは、大抵自分と他の誰かを比較したときに生じる心の空隙を突いてくる。そしてそんなとき、私は何よりも自分の心の弱さを呪う。ある方は私と私のサイトを「揺るがない幹」と称してくれたが、私はけっしてそんな強い人間ではない。もし会社をクビになったら、もし不治の病にかかってしまったら、もし十年後、二十年後もひとり身のままだったとしたら、あるいは逆に、誰かと結婚することになったとしたら、そのときの私は今の私と同じように本を読みつづけていられるのか、いや、物語を好きでいつづけることができるのだろうか。

「ローキックと左フックができて、それと、客を夢中にさせられれば、他に何がいるんですか」

(『鋼鉄のウール』より)

 本書『終末のフール』は、表題作をふくむ八つの短編を収めた作品集であり、それぞれの作品のなかで語り手となる登場人物は異なっているものの、いずれも仙台北部にあるマンション「ヒルズタウン」の住人であるという共通点をもっている。そして、物語のなかの世界は、あと三年で終末を迎えることになっている。小惑星の衝突によって地球は壊滅的な状態になる、という発表から五年、世界中がパニックに陥り、それまで日常であったはずのあらゆる流れが麻痺し、それに変わって犯罪や動乱、自暴自棄な殺人や未来に絶望しての自殺といった無秩序の極地が日常と化していた時期は過ぎて、世界はまるで台風の目のなかにいるかのような小康状態をたもっている。そんなきわめて特殊な世界を舞台として、物語は展開していく。

 もちろん、小惑星の衝突という設定自体があまりにもリアルでないし、仮にそれが真実だったとしても、各政府の情報操作がその種の漏洩や、一般市民への浸透を許すはずもなく、また八年もの年月があれば、悲劇の回避のための何らかの対策がとれるはずなのだが、そうしたある種のリアリティについて、本書では深く追究することはない。いっけんするとありえない特殊な世界設定や特殊な能力を物語のなかにうまく反映させていく、というのは伊坂作品の大きな特色のひとつであるが、本書においても重要なのは、世界の終末のリアリティではなく、むしろそんなきわめて特殊な状況に陥った人々の、それでもなおまぎれもない「今」を生きていく姿が、けっして何ものにも揺るがされることのない、ひとりの人間としてのまぎれもない個性と意識の輝きを浮き上がらせることになる、という点である。

 人間というのは、良くも悪くも自身の欲望のために行動する。金が欲しい、良い生活がしたい、有名になりたい、出世したい――欲望の形は人それぞれであるが、けっきょくのところそれらの欲望が直結しているのは、自身のはっきりとしない未来が、これからも続いていくという前提があって、はじめて成立するものがほとんどである。未来のことなど誰にもわからない。だが、自身の今のありかたが、かならず何らかの形で自身の未来を変えていくはずだ、という意識があるからこそ、人々は苦難に耐えることができるし、努力をつづけることもできる。

 本書のなかで設定された世界の終末は、それまではっきりしていなかった未来を、はっきりとわかる形で区切りを入れることに相当する。否応なく未来を断ち切られ、未来へとつながる欲望に固執することが意味をなくした世界のなかで、生きる意味そのものを失った人たちは、ほとんど死んでいるか、生きていても人間としては死んだも同然の人たちである。そして、そんなふうに考えたとき、本書の短編のなかに登場する人々は、少なくとも物語を動かしていくに足る個性と意識を持ち合わせていることを意味する。

 たとえば、『鋼鉄のウール』に登場するキックボクサーの苗場は、世界がまだ普通であった頃に行なわれるはずだったタイトルマッチに向けた練習を今もつづけているし、『天体のヨール』に出てくる天文オタクの二ノ宮は、今も星を観測しつづけ、『深海のポール』でビデオレンタル店を経営する渡部の父は、マンションの屋上に高い櫓をつくっている。いずれも一風変わった――ともすると変人あつかいされそうな人たちばかりであるが、彼らに共通しているのは、いずれもそれまでの人々の大きな価値観だった、金銭や利益とは関係のない目的のために生きている、ということであり、そこには世界の終末という究極の状況でさえも揺らぐことのない確固たる意思の輝きがある。

 そのいっぽうで、世界の終末という出来事がきっかけとなって、それまでとは違った行動を起こしたり、重大な決断を迫られることになった人々も登場する。『太陽のシール』の桜庭夫婦は、妊娠した胎児をどうすべきなのかを考えなければならなくなるし、『籠城のビール』のある兄弟は、「ヒルズタウン」に引きこもった元アナウンサーへの復讐を決意する。『演劇のオール』の語り手は、一度捨てたはずの役者としての技量を使って家族を演じ、『終末のフール』の母は、長年断絶状態にあった父と娘の仲をとりもつための策を講じる。彼らの心はけっして強固ではなく、むしろ状況に大きく揺さぶられるという意味で、私たちのよく知る人間らしさをもっているのだが、そこに激しい感情の起伏といったものはなく、全体としては静かな雰囲気に満ちている。そのある種の突き抜けた感触――大きな混乱や悲しみ、絶望や見苦しい狼狽のはてに残った何かを大切にしていこうとする感触をもっとも象徴しているのが、『冬眠のガール』の語り手の女性だと言える。

「たとえば、桜が春の短期間しか咲かないからって、誰も『許さん』とか怒らないですよね」――(中略)――「それと同じ感じなんですよ、何か」わたしは言う。「お父さんとお母さんは死んじゃった。でも、そういうもんなんですよ、きっと」

(『冬眠のガール』より)

 いずれの短編においても、世界はあくまで静かに過ぎていくのだが、そこには世界の終末と、それにともなって噴出した人々の弱さや脆さと、それゆえに起こった壮絶な悲劇が隠されている。未来の可能性に向けて突き進んでいく世界ではなく、ほどなく訪れる終末に向けてゆっくりと立ち枯れていく世界――そこがけっして殺伐としているわけではなく、むしろ穏やかさに満ちているのは、あらゆる意味で無理をしたり、先を急いだりする必要がなくなったということであり、もし本書を読んで、その雰囲気にむしろホッとするものを感じるのであれば、それはその人にとって、今の世の中があまりにめまぐるしすぎて、何が本当に大切なのかがわからなくなっているからに他ならない。

 もし、何年か後に自分が死ぬと確実にわかったとして、はたして私は今と同じような心の静けさで、自分の好きな「物語」と向き合うことができるだろうか。本書は何かに突き進んでいる人、がむしゃらになっている人たちをふと立ち止まらせる何かを、たしかにもっている。(2007.02.27)

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