【東京創元社】
『ニューヨークの魔法使い』

シャンナ・スウェンドソン著/今泉敦子訳 



 ファンタジーの世界において、「魔法」という要素はかならずしも必要不可欠というわけではないのだが、少なくともファンタジーとしての雰囲気――私たちの住む世界とはまったく異なる、不思議な世界の物語であることを演出するのに、魔法の存在は非常に使い勝手の良い要素であることは間違いない。『ナルニア国物語』にしろ、『指輪物語』にしろ、あるいは「ハリー・ポッター」シリーズにしろ、魔法の存在が物語の根幹を成す要素として生かされていた作品であるのだが、同時に魔法の存在は、物語や登場人物のリアリティと常に抵触する運命をかかえているとも言える。

 例えば、魔法が高度に発達した世界なり文明なりがあるとする。魔法によってどんな怪我でも瞬時に回復してしまったり、火の玉を生み出して簡単に周囲を吹き飛ばしたり、といった出来事がその世界の常識であるとすれば、そこに生きる人々の価値観は、当然のことながら魔法など存在しない世界に生きる私たちといくらか異なっていても不思議ではない。もしかしたら、その世界の住人は、強力な回復魔法の存在ゆえに、私たちほど人の命に重きを置かないような精神構造をしているかもしれないのだ。そして、そうした事柄は言うまでもなく、読者にとってリアルではない。では、魔法の存在にリアリティをもたせるにはどうすればいいのか、という場合、魔法の存在をごくかぎられた特権としてしまうとか、あるいは魔法の存在自体を厳密に体系化するとかいった方向性が必要となってくる。

 だが、魔法というのは文字どおり「魔の法」、つまり、秩序や法といった概念とは対極にあるものだ。因果関係や物理的エネルギーの法則をいっさい無視して、何もないところからコーヒーを出現させる「不思議な力」が魔法であるとするなら、そもそも体系立てること自体が徒労に終わることになる。ある意味「何でもあり」の力は、混沌そのものであるからだ。仮に体系立て、秩序を与えることができたとしたら、それはもはや魔法ではなく、まったく別系統の科学技術ということになる。

「みんなが言うとおり、ニューヨークは本当に変わったところなんですね」わたしはようやく口を開いた。「テキサスには魔法使いなんていませんでした」

 本書『ニューヨークの魔法使い』に登場する一人称の語り手キャスリーン・チャンドラー(通称ケイティ)は、ニューヨークの普通の会社に勤めているごく普通の女性である。容姿は十人並み、ルームシェアしている友人が何度もデートをセッティングしてくれるものの、いまだ彼氏のひとりもできず、会社ではあまりパッとせず、ヒステリックな上司に振り回される毎日。ついでにいつも金欠で、テキサス出身の田舎者という特典つきのケイティだが、やってきてそろそろ一年になるこのニューヨークの街には今もなお慣れることができずにいる。とにかくテキサスでは想像もつかないような、妙ちくりんな格好をした連中が普通に街を歩いていたりするのだ。たとえば、背中に羽が生えていて足が宙に浮いていたりする輩とか、教会の屋根にいたりいなかったりする怪物の彫像とか、どこをどう見てもハンサムとは言えない男が妙に女の子にモテモテだったり――しかも、他の人たちはそんな彼らの存在をいっこうに気にする気配すらない。はたして、これが「ニューヨーク」というヤツなのか、あるいはおかしいのはケイティの頭のほうなのか……。

 人間社会ではおちこぼれだった人物が、じつは本人すら自覚することのないとんでもない才能の持ち主だった、というオチは、それこそ『ハリー・ポッターと賢者の石』お得意のパターンであるが、本書の場合、まったく逆の意味でケイティは魔法を使う者たちの注目をひくことになる。つまり、彼女には魔法の才能がまったくない、自分のなかに魔力をまったく持ち合わせていないということになるのだが、それゆえにどんな魔法もケイティの前では無力と化す。物語は、そんなけっして恵まれた仕事環境にいるわけではない彼女の、「免疫者」としての素質を見抜いた魔法製作会社MSI(マジック・スペル&イリュージョン)のスタッフの誘いを受けたケイティが、その新たな魔法会社のなかでめきめきと頭角を現わしていくというある種のサクセス・ストーリーであるが、本書のなかで注目すべきなのは、ケイティにとってはつまらないと常々思っている自身のとんでもない「普通」さ加減が、このうえなく貴重な才能として大きく評価されるという価値観の逆転作用である。

 いにしえの時代から存在してきた魔法の神秘的な印象と、現代という時代の流れとともに株式会社となり、魔法の世界に住む人々へのビジネスを展開しているという、いかにも現実的な要素とが隣り合わせであり、そのギャップがしばしば笑いを誘うことになる本書であるが、ここで登場する「魔法」の要素は、言ってみればコンピュータにおけるアプリケーション・ソフトといったものとほとんど同義であり、けっして上述した名作ファンタジーのように物語の根幹を成すものではない。何より、ケイティはたしかに魔法の影響を受けつけない「免疫者」としての才能を買われ、じっさいの仕事においても、心ない者たちが仕掛けてくる魔法による目くらましといったものを見抜く検証作業がおもなものであるが、もし彼女の素質がそれだけであるなら、MSIにいる他の「免疫者」と大差ない、ということになってしまう。彼らとケイティを隔てる決定的なもの――それが「普通」であるということとしている本書は、不思議さやセンス・オブ・ワンダーを売りとするファンタジーにおいては、まさに逆転の発想である。

 「真に普通というのは驚くほど希有なものなものです」と、強大な魔力をその内に秘める魔法使いオーウェンはケイティに語るが、ここでいう「普通」というのは、端的に言えばおかしな事に対して「おかしい」ときちんと指摘できるということだ。そしてそんなふうに「普通」であることを定義したとき、本書に登場するほとんどすべての人間が「普通」ではないという事実に気づくはずである。株式会社MSIの社員たちは、魔法が使えるという世界の住人であり、必然的に世の中の常識から外れてしまうことが多いのだが、それ以上にニューヨークに住む、魔法とは無縁に生きている大多数の人たちもまた、別の意味で普通ではないのだ。どんな奇抜な格好をしている人と出会っても、あるいはどんな奇抜な出来事が目の前で起こっても、ちらと振り返ることさえなく歩き去っていくニューヨーカー ――それは、ある意味異常な状況であると言えなくもない。あきらかにおかしなこと、普通でないことが起こっていながら、それを見てみぬフリをすることが、はたしてどれほど「普通」なことなのか、と考えさせられるものが、本書のなかにはたしかにある。

 他の誰でもない、自分でなければできないことが、きっとこの世界のどこかにあるはずだ、という想いを胸に、このうえなく普通でない人々に囲まれて生きていくことを決めたケイティの力は、まぎれもない現実、物事の真実の姿をありのままに受け止める力でもある。それは、あるいはどんな魔法よりもこの世界において必要とされている力であるかもしれないのだ。(2007.09.08)

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