【国書刊行会】
『エンベディング』

イアン・ワトスン著/山形浩生訳 

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 言語学者のソシュールによれば、言語活動というのは、満天の星空から星座を見分けるように、もともとは何の分節もされていない混沌とした世界に境界線を引き、切り分ける作業そのものであるという。夜空を見あげたときに、そこに最初から「星座」という観念があって、その観念に名前をつけたのではなく、漠然と満ち溢れる星々を線でつないでいくという思索を経て、そこにはじめて「星座」という観念が誕生するように、言語活動によって分節されることで、はじめてそこに事物が存在することを許されるという考えは、たとえば神によって世界が創造され、その創造されたなにものかに対して「犬」や「山」といった名前を与えていったという宗教観をもつ人たちに大きな衝撃を与えただろうことは、想像に難くない。

 言葉とはものの名前ではなく、世界を分節するものの見方であるという観念は、後の構造主義へとつながっていく重要な思想のひとつとなっていく。なぜならこの思想は、習得した言語によって世界の捉え方が異なっている、つまり世界は相対的なものであるという結論が必然的に導かれることになるからだ。そしてそれがもし事実であるとするなら、そうしたさまざまな言語を研究することによってあらゆる生物につうじる普遍言語へと到達するのではないか、そしてそれは、神の創造した真実の世界を捉えることにつながるのではないか、という一種のロマンが発生するのもうなずける。じじつ、ディエゴ・マラーニの『通訳』をはじめ、おもに海外翻訳作品において何度か見かけたことのあるテーマであるのだが、今回紹介する本書『エンベディング』は、言語学における「自己埋め込み(セルフ・エンベディング)」をひとつのテーマとした作品であると言うことができる。

「『これは大麦を食べた、犬を心配させたネコが殺したネズミです』これはどうです? 文法的には正しい――が、ほとんど理解できない。この埋め込みをさらに推し進めると、ルーセルの詩の状況となります。」

 本書によると、「自己埋め込み」とは「”再起規則”と呼んでいるものの特殊な用例」というふうに説明されている。そして「再起規則」とは、「文の形成において同じことを複数回行なうための規則」とある。これは例えるなら、「クラリネットこわしちゃった」という童謡のなかで、歌がつづくにつれて音の出なくなる音階が次々と埋め込まれていく歌詞を思い浮かべてもらうのが手っ取り早い。それが「自己埋め込み」になると、複数の単語ではなく、文や、あるいはもっと長い文章も含めて埋め込まれ、一文がそれこそ人間の瞬間的な記憶許容を超えるような長さになってしまうという状況が生まれてくる。

 この「自己埋め込み」構造に物語のうえで関係している人物として登場する研究者が、クリス・ソールとその旧友であるピエールのふたりである。ソールは、極端な自己埋め込み形式で書かれたフランスの詩人レーモン・ルーセルに傾倒している研究者であり、ピエールは、アマゾンの奥地で暮らすある部族の言語に「自己埋め込み」の要素を見出し、彼らのことを知るために現地でのフィールドワークにいそしんでいる。物語はこのふたつの流れが平行線を引くように進んでいきながら、ある時点で奇妙な形で交差していくような展開になっていくのであるが、じつのところ、本書の筋書きを追うことにさほど大きな意味があるわけではない。というよりも、物語の筋という点では、本書はどこか破綻しているところさえある。なにしろ、唐突に異星人が地球に飛来し、人類との交渉をはじめたり、アマゾンに巨大なダムを建設し、ジャングルを水びだしにするようなプロジェクトが進行していたりするのだ。少なくとも、物語の展開によってなんらかのメッセージを受け取ったり、あるいは人間ドラマといった要素を本書に求めていると、幻滅させられること請け合いである。

 では、本書がどういった小説であるのかということを考えるさいに重要になってくるのは、やはり「自己埋め込み」という要素である。現在形であるにもかかわらず、そのなかに入れ子構造のごとく過去や未来のことを詰め込み、無限に増殖していくことが可能なこの構造は、じつは本書のあちこちで見出すことのできるものでもある。ただし、それは文章としてではなく、物語の構造や設定としての「自己埋め込み」という意味だ。たとえば、ピエールが現地で調査対象としているゼマホア族たちは、彼らが暮らす密林ごと巨大なダムによって水没されられつつあるのだが、これは見方を変えれば、ゼマホア族たちの環境がジャングルに埋め込まれ、さらにその環境がまるごとアマゾン水没プロジェクトという計画のなかに埋め込まれている、ということになる。

 ソールの研究にしても、じっさいは第三世界からつれてきた子どもたちを、孤立した環境施設のなかに閉じ込め、人工的に「自己埋め込み」の発話を学習させることで、彼らのとらえる現実がどのようなものなのかを探るというもので、言ってみれば子どもたちの世界は物理的にも精神的にもソールの研究という観念のなかに埋め込まれている。そしてその研究対象の子どもたちにしろ、ゼマホア族にしろ、その閉じた時空間こそが世界そのものであり、その外側にもっと大きな世界があることを認識していない。認識してはいないのだが、もし彼らのきわめて特殊な生活環境が、世界を「自己埋め込み」的なものであるという捉え方に、それこそ認識以前の本能的な段階で到達しているのであれば、彼らの意識はいずれ、その埋め込まれた小さな世界を突破する画期的な何かを生み出すことになるかもしれない、という期待がある。

 そして本書を読み進めていくと、このきわめて小さな「自己埋め込み」は、そのままソールたちの生きる世界にも適用されていくことに気づく。異星人とのファーストコンタクトという、あまりに唐突な物語の要素は、そのために用意されたものだ。広大な宇宙を渡ってきたという異星人にしてみれば、私たちの生きる地球という環境こそが、宇宙に埋め込まれた閉鎖空間であるという認識になるわけだが、そんな彼らにしても、じつは宇宙そのものがもっと大きな「世界」に埋め込まれたものにすぎない、という認識をもち、そこからの超越を模索していたりする。

 こうして本書の世界をとらえると、まるでロシアのマトショーリカ人形のごとく、いくつもの世界が入れ子構造として内包されていることになるのだが、ここで問題となるのは、およそ人間にそうした構造を正しく理解することが可能なのか、という点である。そもそもひとつの文のなかに、無限に近い情報を埋め込むことができる「自己埋め込み」は、それだけで人間の記憶を圧迫するものであり、それを補うためにゼマホア族は独自の麻薬を使ってトリップ状態に陥り、ソールの研究対象の子どもたちには、学習速度を高めるための薬が投与されている。異星人たちの現実世界超越への渇望にしても、およそ人間には理解不能な感情である。そしてソールたちに代表される私たち人間は、この入れ子構造の世界を真に客観視できない生き物という立ち位置に貶められている。ソールの実験をはじめとして、本書では人間が同じ人間に対してけっこう非道な行ないを平然と進めていたりするのだが、そんな彼らの行ないに対して、その非人間的なものへの憎悪というよりは、むしろその滑稽さや卑小さのほうが目立ってしまうのは、本書の「自己埋め込み」構造が曲がりなりにも機能しているからに他ならない。

 本書の冒頭は、イギリスのソールの家にピエールのからの手紙が届くというシーンからはじまる。そこでは、ソールの妻であるアイリーンとピエールが昔恋人どうしだったことが示唆されるのだが、このいかにもな設定もまた、最後の最後に「自己埋め込み」の物語を終わらせるための伏線として用意されている本書に、はたしてあなたの意識はどこまでついていくことができるだろうか。(2012.11.04)

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