【太田出版】
『象がおどるとき』

テス・ウリザ・ホルス著/小島希里訳 



 本当に大切なものは、失くしてみてはじめてそうだとわかるもの、というフレーズは、物語のなかではわりとよく見受けられるものであるが、じっさいに失くしてみないと、その人にとって大切なものであるかどうかがわからないようなもの、ふだんはあってあたり前だと思いこんでいるようなものに対して、私たちはいったい何ができるというのだろうか、とふと考えることがある。

 たとえば、健康な体というのは、常に健康である人にとってはそれがあたり前のものであって、労せず得られるもの、たいして重きを置く必要のないものである。たまに病気や怪我などをすれば、健康であったときの状態の大切さを身に染みて感じることになるだろうが、また健康な体に戻り、その状態が長くつづくようになれば、愚かで忘れやすい人間はたちまち以前のようにそれがあたり前だと思いこんでしまう。つまり、健康な体が本当に大切なものだとわかるのは、健康でない状態を常にかかえて生きている人たちだけということであり、しかしそのとき、その人にとって「健康」はもう手の届かない高嶺の花と化しているのだ。

 おそらく、本当に大切なものというのは、何か明確な対象があるかどうかということではなく、失くしてしまったあとに、それでもなお生きつづけなければならない人々の心構えにこそあるのだろう。誰でも馬鹿にされれば悔しいし、踏みつけられれば痛みを感じる。それが自我をもつ人間の当然の反応であるが、大切なものを永遠に失くしてしまったときに痛みや哀しみを感じるのは、そこに人間としての心があるからこそであり、もしそうした心すら失くしてしまったとしたら、それこそ私たちは、大切なものを失くしてしまったことすらわからなくなってしまう。そんな状態が、はたしてひとりの人間としての生だと言えるだろうか。

「象がおどっているとき、にわとりは気をつけないといかん」木々をゆらしながら、ぐるぐる歩きまわり鳴き声をあげるでっかい獣たちは、戦争をしているアメリカーノと日本人のこと。フィリピンの島々? ぼくたちなんか、にわとりのこどもさ。

 本書『象がおどるとき』は、第二次世界大戦末期の1945年2月のフィリピン――3年前に日本軍によって占領され、それをアメリカ軍がとり戻そうとしているフィリピンのルソン島を舞台とした作品である。物語の語り手となるのは、そんな激戦区のなかで、ひっそりと生きのびているフィリピン人の子どもやその姉、あるいは日本軍と敵対している原住民ゲリラのリーダーといった人物であり、基本的に彼らがバトンを渡すように語り継いでいくことで話が進んでいくが、ひとつ共通しているのは、日本軍やアメリカ軍といった「象」ではなく、ともするとその象たちの踊りによって踏み潰されてしまう「にわとりの雛」たるフィリピン人の視点、心ならずも戦争に巻き込まれ、ふだんの生活の場を奪われつづけてきたフィリピン人の心情が中心となって物語が語られていくという点である。

 じっさい、彼らの置かれている状況は最悪といっていいものだ。住む家を日本軍に押収され、狭い家の、それも地下で何家族もが肩をすぼめて生きなければならない毎日、日本兵による無慈悲な暴行を怖れながらの食料調達、それでも圧倒的に足りない食料のため、日常のものとなっている飢餓、絶え間ない爆撃や発砲音、破壊され炎上する町、放置された死体の山――まさに地獄というにふさわしい劣悪な場所で怯えながら日々を過ごすことを余儀なくされているフィリピン人たちは、しかし日本軍とアメリカ軍のどちらを味方するかでまっぷたつに分かれてしまい、同じフィリピン人でありながら同族同士で殺し合いをするようなところさえ出てきている。

 語り手のひとりである少年、アルハンドロの家にも、家を奪われた人たちが何人も寄り添って暮らしているが、父親は病気で動けず、姉は食べ物を探しに出たまま戻ってきていない。臆病者のセルーソ、金にうるさくケチのアンナ、日本からの移住民の家族、日本兵のスパイ(マカピリ)であるフェシリアーノや、対日本軍ゲリラのドミンゴとその家族、霊視の力をもつペドロなどじつに個性的な人々をかかえ込んでいる少年の家は、そのまま当時のフィリピンという世界の縮図にもなっている。当然のことながらストレスも多く、ちょっとした諍いも絶えない。そんなときに、誰かが自身の体験したちょっと不思議な話が語られだす。

 日本軍占領下にあるフィリピンという現状の大きな物語の流れのなかに、いくつも小さな物語が挿入されていくという本書の物語構造は、ともするとフィリピン人の人間としての尊厳を徹底して奪い去ろうとする強者たる日本軍のおぞましさと、そんな兵たちによって踏みにじられていく力なきフィリピン人たちの救いのない悲劇、さらにはそこから戦争そのものがさらけだす人間の醜さ、深い嫌悪感へとつながっていくメインの物語の暗さを払拭する役目もあるのだろうが、何より注目すべきなのは、これらの挿入話のテーマが、いずれも一時的な感情によって本当に大切なものを失くしてしまったことへの深い哀しみを描いたものだということである。

 父親に認められたいという思いから、悪しき魔法の魅力にとりつかれそうになった少年の話や、母親に振り向いてほしいという孤独感におぼれるあまり、本当に自分のことを慕っていた人の存在に気づいてあげられなかった少女の話は、極度の飢え、常に命の危険をともなう緊張状態のなかにあって、ともすると人として譲れないものまで蹂躙されてしまいそうになっているフィリピン人たちの現状を指すものでもある。今、自分たちが本当にしなければならないこと、大切にしなければならないものは何なのか――なかでももっとも印象深いのは、ゲリラとして日本軍と戦うという決意の固いドミンゴに対して、フレデリコが話して聞かせる「ある尊大な男の肖像」で、フィリピン人としての尊厳を護りたいという情熱と、だがそうすることで、自分が属するかけがえのない家族が危険な目にあうかもしれないという相反する思いに悩みつづける男の姿、つまりドミンゴの葛藤が浮き彫りになる仕組みになっている。

 私たちは、日本がかつて世界を相手に戦争を仕掛け、敗戦を迎えたという事実を知っている。そして戦争末期の日本に生活をしていた日本人たちがアメリカ軍の空爆によってどれだけ悲惨な目にあい、また原子爆弾がもたらした大きな悲劇がどのようなものであったのか、ということについて、いくつもの物語や体験記を読むことができる。だが、逆に日本が兵士として、日本の外の国でどのようなことをやってきたのか、ということについて、知る機会はけっして多いわけではない。本書は第二次世界大戦を日本軍占領下の住民の視点から書いた小説、という意味で非常に貴重なものであるが、それ以上に、古くから大国の植民地としての存在を余儀なくされた「にわとりの雛」たる小さなアジアの国にも、けっして小さくはない歴史があり、そこには人々の尊厳を求めていくつもの衝突と、悲劇と、さらにそれを乗り越えて生きていこうとする人々の力強い息吹がある、ということを教えてくれる作品だと言うことができる。(2006.07.27)

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