【新潮社】
『栄光の岩壁』

新田次郎著 

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 このあいだ、たまたま観ていたテレビで「10億円売れた発明品」を開発した人の話が紹介されていたことがある。その商品とは、ほんのちょっとした工夫のなされた紙止めクリップなのだが、そのアイディアがちゃんとした形の商品となってヒットするまでに、じつに長い年月がかかっていること、そのあいだに妻に呆れられて別居状態となるなど、いろいろな苦労があったことをドキュメンタリー風に放送していたのを覚えている。やはり役に立つ発明をするのは大変なことなんだと思ったものだが、そろそろ老年に達しようとしているその人物が、一生のうちに20個の発明品をつくることを目標としていることを知って、ふと自分も含めた人間という生き物に与えられた時間、その短さや儚さというものについて考えざるをえなくなった。

 その日その日をただ漠然と生きていく人にとって、人生という時間は、あるいは長く感じるものなのかもしれないが、何か成し遂げたいことや極めたいこと、自らに高い目標をさだめ、それを実現していきたいと考えている人々の大半にとっては、自身の一生はあまりにも短く、限られたものとなっていく。もちろん、なかには社会的にも大きな目標を次々と達成していく超人のような人もいるにはいるが、誰もがやりたいと思ったことを、望んだ数だけかなえられるわけではない。だからこそ、もし何かひとつでも、不断の努力によって成し遂げることのできた人たちは偉大であるし、また素晴らしいことでもあるが、そのたったひとつの成果を得るために、その他のやりたいと思っていたこと――たとえば自身の青春や恋愛経験、あるいは家族との幸せな時間といった、ありふれてはいるが大切なものを振り捨てていかなければならなかったとしたら、それはあるいは、ちょっとばかり哀しいことであるのかもしれない。

 そうだ、岳彦はばかだよ。こいつはほんとうの山ばかというのだ。山にだけしか人生はないと考え、それを実践している男だ。生命を山にたたきつけて、そのはね返って来る音を楽しんでいる男だ。こいつはほんとうの山ばかなのだ。

 本書『栄光の岩壁』は、竹井岳彦という名のクライマーの半生を描いた作品である。六人兄弟の五男として生まれた岳彦の、猿のように敏捷で、また人一倍負けん気が強く、ガキ大将としても君臨していた小学生時代からはじまる本書のなかで、時代はやがて泥沼の消耗戦をしいられる戦争、そして来るべき敗戦を経て、人々は戦後の混乱のなかに身を置くことになる。なにもかもが不足し、自分が生きるだけで精一杯という激動の時代のなかで、若い岳彦は徐々に山というものに魅せられていき、高校の無為な授業などそっちのけでさまざまな岩壁の登攀を試みるようになるのだが、そのクライマーとしての資質を開花させようとしていた矢先に、ひょんななりゆきから友人とともに冬の八ヶ岳縦走に挑戦して遭難してしまい、友人の命ばかりか、自身も重度の凍傷によって足の甲の三分の一を失うという大きな痛手を負うことになる。

 アルピニストやクライマーにとって、命とも言うべき足――その重要な部分を失って「足でない足」となり、一生松葉杖なしに歩くことができないとまで言われた岳彦が、まるで不可能を可能にしてやるといわんばかりの強い執念と不屈の挑戦の結果、ほぼ常人と遜色なく歩けるようになったばかりでなく、日本でも有数のクライマーとして数々の難所を登攀していき、最後には、もし達成すれば日本人では初となるスイスのアイガー登攀という偉業に挑戦するまでに成長を遂げるその様子は、物語としても非常にドラマチックなものがあることはたしかである。普通の人のそれとはあまりに変わり果ててしまった足、そのあまりにも大きなハンディを背負いながら、それでも山への憧れをあきらめきれず、ときには文字通り血を流しながらも山を登り、岩壁をよじのぼっていく。常に自身の限界に挑もうとする態度は、いかにも山男らしい気質ではあるが、そんな岳彦の姿が感動的なのは、けっしてその逆境に立ち向かい、苦難を乗り越えようとする姿勢によるものばかりではない。

 あくまで「足でない足」の限界を冷静に見つめ、人より早く走ったり、重い荷物をもって長く歩いたりできないというハンディを認めたうえで、それでもなおひとりのクライマーとして、山とともに生きていくにはどうすればいいか、そして自分ひとりでは登攀が不可能な岩壁を前にしたときに、ザイルを組む仲間のために自分に何ができるのか――ひとりのクライマーに焦点をあてた本書だけあって、山登りや岩壁登攀の詳細な描写や、その装備や心構えに関するたしかな知識、そして何より、山に挑戦しているときにふと差し挟まれる、周囲の豊かで、そして厳しい自然の様子、その生き生きと描かれた臨場感はまさに見事の一言に尽きる。だが、そうした描写がたしかなリアリティをもって読者に迫ってくるのは、岳彦が山と深くかかわることによってつちかうことになった、ひとりの人間としての度量の大きさ、その心根のありようにこそある。

 本書のなかで、岳彦はけっして山登りばかりをしているわけではない。その人生のなかで、彼は会社に就職し、プロモーション活動のためにあちこちに出張することもしているし、またある運動具店の女性と結婚し、婿養子として店の経営にたずさわることにもなる。会社員として、また夫としての岳彦は、けっして良い会社員、良い夫というわけではない。むしろ一匹狼的なところのある彼は、どうしても山から離れられないという意味では、会社や家族を大切にしないろくでなしと言ってもいい。だが、山を通じて三人の仲間がその命を失うのをまのあたりにし、自身もまた何度も死を覚悟したことのある岳彦のなかに、良くも悪くも芯のとおった意思の強さがあるのはたしかである。そしてその人としての性質は、ことあるごとに岳彦の前に現われて、調子の良いことを言っては彼に多大な迷惑をふりまいていく、疫病神のような津沼春雄の存在によって、ますます引き立てられることになる。

 人並みでない足をかかえ、その足を恥ずかしいものだと思いながら、そんな気持ちに負けまいとするかのように、果敢に山へと向かっていく岳彦――彼が本当に偉大なことを成し遂げたときに、ハンディであった自身の足も、そうなった原因やその後のさまざまな苦難も、すべて自身のものとして受け入れることができる心境の変化に気がつくことになる。その一種のカタルシスこそが、本書の最大の感動するところなのだ。

 自分自身との戦いとして、山にすべてをかけることでしか生きる道を見いだせなかった岳彦の人生は、たしかにある意味では不憫なものであるのかもしれない。だが、それ以上に尊い何かを、岳彦は見つけることができたはずである。それは、ひとりの人間としてその後の生きかたを変えるだけの何かであることを私は確信している。(2005.01.04)

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