【朝日新聞社】
『エイジ』

重松清著 
第12回山本周五郎賞受賞作 



「キレる」って何だろう。「ムカつく」って何だろう。いったい、いつからこんな感情的な言葉が、新聞やテレビであたり前のように使われるようになったのだろうか。そして、そんな言葉をやたらと発するようになった少年や少女たちの心の中には、いったいどんな気持ちがつまっているのだろうか。

 今も記憶に新しい、神戸市須磨区で起きた中学生による連続通り魔殺人事件――ただでさえ凶悪犯罪の低年齢化が話題になりつつあったあの頃においても、その少年が引き起こした事件は、たしかに大変な衝撃とともに日本じゅうを駆け巡っていった。そして世の大人たちはこぞって、まるで自分が社会の代弁者であるかのように、いろいろなことをまくしたてていた。教育の問題、家庭の問題、いじめ、不登校、自殺、少年法の改善、先の見えない将来への不安etc、etc……。だが、そうやって世の大人たちが大騒ぎしていた頃、現役の中学生だった少年少女たちは、その事件をどう受けとめ、どんな考えを抱いていたのだろうか。そう、自分が被害者ばかりではなく、加害者にもなりえるという事実は、多かれ少なかれ現役中学生たちに何らかの翳を落としていったのではないだろうか。それとも、自分とは関係ない世界で起きた、本当か嘘かも確かめようのない多くのありがちな事件のひとつとして片づけてしまうのだろうか。

 少なくとも、本書『エイジ』に登場する中学生のエイジにとって、いや、エイジ以外の多くの登場人物たちにとっても、今回起きた事件をたんなる「遠い世界の出来事」として片づけるには、あまりにも自分たちの身近でありすぎた。エイジたちの住む桜ヶ丘ニュータウンで、女性ばかりを狙って犯行を繰り返していた通り魔――だが、その犯人が逮捕された時にわかったのは、犯人が中学生であったこと、しかも、エイジが通う中学校の、エイジの教室のクラスメイトのひとりであったという事実だった。

 著者が描くのは、あくまで等身大の中学生の姿だ。普通に学校へ通い、普通に勉強したり部活動に励んだり、普通に気のあう仲間と雑談したりふざけあったり、ときには異性に対して淡い恋心を抱くこともあるかもしれないし、友達と喧嘩したりすることもあるかもしれないが、それでも家に帰れば、自分のことを確かな愛情を持って迎えてくれる、ごく普通の父親と母親がいる、ごく普通の生徒――ただそれは、犯罪をおかした中学生や高校生たちのことを聞かれて、版で押したように返ってくる「ごく普通の生徒」ではなく、それぞれがそれぞれの個性と人格を持った、とりかえのきかない一個の人間としてとらえられた生徒の姿なのである。著者は、エイジやタモツ、ツカちゃんといったごく普通の生徒の目を通して、自分のクラスの級友が起こしていたひとつの通り魔事件についてとらえようとする。

 大挙して押し寄せてくる報道陣、待ってましたとばかりに流されるニュースや新聞、神経質なまでに張りつめた雰囲気の教師たちは、余計なことは喋らないよう念を押す一方で、どう見ても不自然な「あいさつ運動」なるものを展開し、親たちは子供たちの言動に必要以上に反応する。だが、当の中学生たちだって、それぞれ自分の問題を抱えて生きているわけだし、その問題のほうが、まるでドラマを見ているかのように現実感に乏しい周囲の状況よりもよほどリアルだったりするのである。片思いの相沢志穂のこと、膝の病気のために続けられなくなったバスケ部のこと、そのバスケ部でシカトされている友人の岡野のこと――クラスメイトの逮捕という出来事に比べればぜんぜん大したことのない、でもエイジ本人にとってはそれなりに重要な問題に、そしてそれらの問題すべてに対して煮え切らないでいる自分自身に、ちょっとしたいらだちや焦りが募ってくるにつれ、エイジの視線はふと、教室内にポツンととり残された机といすとに向けられる。

 通り魔だったクラスメイト――エイジは彼のことをよく知っているわけではない。彼が教室からいなくなってから、エイジは必死に思い出そうとする。彼がどんな奴だったのか、どんな顔をしていて、どんなクセを持っていたのか、なぜ通り魔を続けていたのか、続けなければならなかったのか。だが、胸の奥には「わからない」が溜まっていくばかりだ。

 ぼくはいつも思う。「キレる」っていう言葉、オトナが考えている意味は違うんじゃないか。我慢とか辛抱とか感情を抑えるとか、そういうものがプツンとキレるんじゃない。自分と相手とのつながりがわずらわしくなって断ち切ってしまうことが、「キレる」なんじゃないか。

 重松清という人は、ごく何気ない日常生活を生き生きと描き、そこに人情をたくみに織り込んでいくことに長けた小説家である。本書では、中学生による連続通り魔事件という、非日常的な題材をとりあげながらも、あくまで日常的な視点を崩すことなく物語を書ききることに成功している。そこには、どこかの評論家のように、はっきりとした主張があるわけではない。ただ、本書が「今時の中学生」にもっとも近い場所にあるのではないか、という想いは、けっして間違ってはいないはずである。(1999.10.29)

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