【白水社】
『アルグン川の右岸』

遅子建著/竹内良雄・土屋肇枝訳 



 自然とともに生きる、と言えば聞こえはいいが、自然というものはけっして人間に対してやさしいわけでないことを、私たちはつい忘れてしまいそうになる。そしてそれは、私たちがいかに自然のサイクルから外れてしまった生き物であるかを雄弁に物語るものでもあるのだが、すでにして文明の利器による恩恵をあたり前のように受けている以上、それらを捨てて自然に回帰するというのも、また現実味のない話のように思える。

 今の人類をもっとも象徴するモノとして、私がまず思い浮かべるのが自動車だ。自動車は四つの車輪によって高速で移動する乗り物であるが、この車輪という構造は、本川達雄の『ゾウの時間 ネズミの時間』によれば、もっともエネルギー効率の良い形であるとされている。だが車輪の弱点は、少しでも段差があると効率が大幅に落ち、うまく動かなくなること。ゆえに自然界のもので、車輪と同じような形状をもつ生き物はほぼ存在しないのだが、人間はこの弱点を克服するために、「道路」という平らな道を縦横無尽に敷くという方法をとった。つまり、自然とともに生きるのではなく、自然を自分たちの都合の良いようにつくり変えることで、車輪駆動の効率性を最大限に生かせるようにしてきたのが、私たち人間なのだ。

 自動車は他のどんな四足歩行の動物よりも速く、また長時間の走行が可能である。だがその利便さは、道路という自然でないものがあってこそのものでもある。今回紹介する本書『アルグン川の右岸』は、中国東北部に住む少数民族エヴェンキ族の、ほぼ百年に近い歴史を語り手の老女が語る、という形式の作品であるが、狩猟民族であり、また遊牧民族でもある彼らを象徴するものが「トナカイ」である点が、本書を評するうえでもっとも重要な要素だと言える。

 トナカイはきっと神様がわれわれに与えたものだ。彼らがいなければ、われわれもいないだろう。――(中略)――彼らの目を見ることができないと、昼の太陽、夜の星を見ることができないようなもので、心の底からため息が洩れる。

 エヴェンキ族は森を住処とし、狩猟で食料を得ることを基本とする少数民族であるが、同時にトナカイを飼育する民族として登場する。ただし、牛や豚のようにどこか一ヶ所の牧場で飼育するのではなく、エサとなるコケ類を求めてトナカイとともに山のなかを移動しつづけるという遊牧生活をおくっている。ゆえに、彼らの住居である「シーレンジュ」はテントのように簡素なもので、定住することよりも組み立てやすさ、持ち運びのしやすさという点を重視したものとなっている。

 彼らがその生活の範囲としている中国東北部は、アルグン川を挟んで左側はロシア領であり、かつては左岸側がエヴェンキ族の活動範囲だったそうだが、ロシア軍の侵攻によって今の場所に逃れてきたと語り手の「私」は語る。それは、語り手にとってあくまで過去の話にすぎないのだが、本書を読み進めていくにつれて、そんな過去がエヴェンキ族のたどるべき運命――国家の干渉によって住む場所を少しずつ奪われていくという運命を暗示していたことに気づかされることになる。

 本書のなかで描かれるエヴェンキ族の生活には、本来であれば国家の存在を思わせるような要素はほとんどない。ごくたまにロシアの商人がやってくる程度で、それも彼らにとってはロシアの国の人というよりは、たんに外部の人というくくりとなっているのだが、第二次世界大戦時には、満州国を建国した日本軍が彼らの住む場所をソ連に対する前線基地とさだめたことで、エヴェンキ族の男たちに軍事訓練を受けさせると言う形で干渉され、戦後は中華人民共和国の社会主義政策によって大掛かりな土地開拓が進み、エヴェンキ族にも定住生活が推し進められていくことになる。じつは本書の冒頭で、語り手の一族のほとんどが長年住んでいた山を離れ、国が用意した場所に定住することが決まっており、まるで消え去っていく一族の運命を振り返るかのように物語がはじまっていくのだが、そういう経緯もあってか、本書にはどこか鎮魂を思わせるような雰囲気が漂っている。

 もっとも、本書のそのような雰囲気は、エヴェンキ族の生活の一部として常に死が寄り添っているという事実とも無関係ではない。本書を読んでいてつくづく思い知らされるのが、語り手の血族たちがじつにしばしば命を奪われてしまうことなのだが、それは注意深く人の死が隠されている私たちの生活からすれば、じつに驚くべきことだ。逆に言えば、エヴェンキ族の自然に根ざした生き方がいかに厳しいものであるかを物語っているのだが、しかしながらその死の要因の大半が、自然の猛威によるものであるのも印象深い。じっさい、語り手の父親は落雷によって命を落とし、最初の夫はトナカイに乗ったまま居眠りしてしまったことが原因で凍死している。他にも毒にやられたり川に流されたり、あるいは誤って猟銃に撃たれて死亡というケースもあるのだが、今の私たちの生活からは無縁に近いものとなっているものに翻弄されながらも、ときに人を愛し、あるいは恨みつつも懸命に人間として生きていく姿には、不思議なことにどこか懐かしさをおぼえる。

 彼らにとっての死とは、生の対極にあるものというよりは、生の一部として彼らとともにある、という感覚がある。だがそれは、親しい者の死が悲しくない、ということではない。それは厳しい自然とともに生きる者たちが、人の死に囚われることなく生きていくための一種の知恵だと言える。

 まさにそのとき、私は理解した。真に衰えることなく長生きできるものは天上にあり、水中に投影されたものはどんなに美しかろうと、それは短命であることを。――(中略)――レーナは素敵なところに行ったのだから、彼女を思い出すのも怖くなくなった。

 上述の引用は、まだ幼い頃に「私」の姉のレーナが死んだときの語り手の述懐だが、川の水に映った月がさざなみによって容易にその形を崩してしまい、いっぽうの本物の月が不変であるという事実から、姉の死に意味を与え、ふたたび立ち直ることができるのは、まさに自然の力としか言いようがない。激しい感情の吐露があるわけではない。だが、そうした悲しみを癒すだけものが、彼らの生きる自然のなかにあることを、本書は何より雄弁に物語ってくれる。

 平らな道路という人工物の上を走る自動車に象徴される私たちの文明、私たちの生活習慣によって、徐々にその居場所を失いつつある、四足歩行のトナカイに象徴されるエヴェンキ族――九十歳の語り手は山を下りることを拒否し、あくまでトナカイとともに生きることを選んだが、私たちとエヴェンキ族のどちらがより人間らしいと言えるのか、ということを考えずにはいられない。(2014.08.29)

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