【新潮社】
『江戸の暗黒街』

池波正太郎著 



 誰かが誰かを亡き者にしようと画策する。ある者はおのれの権力拡大のために、ある者は敵討ちのために、ある者は男女関係のもつれのはてに、そしてある者は保身のために――どのような理由があろうと、人が人を殺めるという行為はけっして許されるものではないのだが、それでもなお誰かが誰かに強い殺意をいだくことを止められないのは、人が多かれ少なかれプライドをもつ生き物であるからに他ならない。自身の強いプライドは、ときにその人の生きる力となり、大きなことを成し遂げるための原動力にもなりえるものであるが、それゆえに一度間違った方向にその力が注ぎ込まれれば、周囲にいる人や自分自身さえも破滅させかねないものでもある。そんなふうに考えると、人間というのはつくづく危うい生に縛られて生きているのだと思わずにはいられない。

 金さえ積めば、個人の事情を詮索することなく、その対象を暗殺してのける殺し屋という稼業は当然のことながら違法なものであるが、彼らはある意味、人と人とのプライド、それも、醜く歪んだ黒いプライドのぶつかりあう、その最前線にいると言っていいだろう。それゆえに、殺し屋が登場する物語には深い人間ドラマが集約されるのだが、本書『江戸の暗黒街』は、まさにそのタイトルにもあるように、殺し屋たちがひそかに暗躍する江戸の裏側、闇の部分を描いた短編集だと言うことができる。

 たとえば『おみよは見た』では、いきなり殺し屋である青掘の小平次が、とある金持ちの妾である女の殺害をやってのけるシーンからはじまる。彼は言ってみれば金で人殺しを引きうけるプロであり、彼のような殺し屋たちをかこい、殺しの仕事を斡旋する裏の世界がある、という設定になっている。江戸に何千人といる香具師――彼らは盛り場の物売りや見世物といった稼業を生業とする者たちである。そしてその元締として君臨する者たちは、香具師の元締としての表の顔とはべつに、金になるようなことならどんなことにでも手を染めるという裏の顔をもち、それゆえに小平次のような人間が登場することになるのだが、こうした裏の世界の重鎮から殺しの依頼を受ける、というパターンが本書の作品のなかには多い。『女毒』では、浅草一帯を縄張りにしている香具師の元締の娘との婚約を反故にして失踪した男に対して、気位の高いその娘が男の暗殺を依頼するという形で殺し屋が登場するし、『殺(ころし)』では娼家を経営している松蔵という男の暗殺がある殺し屋に持ち込まれる。『縄張り』では、それぞれの香具師の元締たちが、自身の縄張り争いのために殺し屋を差し向けるという話だ。

 暗殺という物語の展開そのものが殺伐としたものであることは否定しないが、これらの物語のなかで扱われている「暗殺」という要素は、それが成功するかどうかといった、物語の中心となるものではなく、たんに物語を展開させるためのシチュエーションにすぎない。むしろ重要なのは、人が人を殺めるというシチュエーションが、思いもかけず登場人物たちの人生を翻弄していく様をどのように描いていくか、という点にこそある。最初に紹介した『おみよは見た』では、小平次は妾暗殺には成功するものの、その現場を妾の奉公女であるおみよに目撃されてしまい、それ以来彼は早急におみよの口封じをしなければならなくなるのだが、じつはおみよのほうでは、その殺し屋のことを、えげつない女主人から解放してくれた男として感謝しているところがあり、誰にも真実を告げることはしまいと決意していた。

 殺し屋と、それを目撃した小女――それぞれに人には言えない思惑があり、それゆえにお互いの思いがどうしようもなくすれ違っていく、という物語の展開によって読者をその世界につなぎとめるのが上手いのが本書の特長のひとつである。それゆえに、短編のなかには上述のようなプロの殺し屋が出てこないものもいくつかある。たとえば『誰も知らない』では、親の敵を見つけたものの、自分の腕では返り討ちにあると思い込んでいるある下級武士が、たまたま目にした浪人の腕を見込んで、自分の代わりにその敵を殺してほしいと頼みこむという話であるし、『白痴』に登場する寅松は、女を凌辱しようとした男の頭を石で殴りつけて殺してしまい、そこから日陰者としての人生を歩むことになる。『男の毒』のおきよは、自分をかこって愛欲に溺れさせてしまうやくざ者から逃れなければ、という一心でその男の首を絞めて殺してしまう。いずれの短編も、当人の意思とは裏腹な方向に物語が進んでいくことになるのだが、そこには人殺しというひとつのターニングポイントがあり、それによって当人の運命が大きく変化をとげていく、というパターンはいずれも共通である。

 親の敵討ち、と聞けば、私たちは無意識のうちに敵討ちをするほうに肩入れしてしまうものであるし、敵は悪い奴だという認識をもってしまいがちであるが、武士の世界における敵討ちというものが、それを果たさないかぎり跡目を継ぐことができない、という事情があるとすれば、考え方は多少変わってくる。本書はそうした事情についてけっして隠そうとはしない。敵討ちの旅に出て、その敵を見つけたものの、相手がどうしても強そうに見えてついつい先延ばしにしてしまう心理も、いっけん強そうに見える敵のほうも、じつはいつ命を狙われるのかと内心ビクビクしながら生きているという心理も、本書は包み隠さず表現していく。それは、たしかにあまり格好の良いものではないのだが、誰もが武士らしく生きていけたわけではない。愛欲に溺れてしまうのも、老齢になって家庭のぬくもりを欲してしまうもの、人間であるからこその弱さであり、そういう意味では、本書はまぎれもない人間の生き方を描いたものだと言えるのだ。

 人が人の命を奪っていく非情な江戸の暗黒街――だか、その生と死のあいだには、まぎれもない人間の、それでも生きようとする意思が渦巻いている。テンポよく進んでいく切れ味鋭い短編集の、そこに住む人々の生き様をぜひとも堪能してもらいたい。(2007.01.24)

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