【岩波書店】
『エクソフォニー』
−母語の外へ出る旅−

多和田葉子著 



 昔、学校で英語を学んでいたときに、英単語を覚えるというのは英語力向上のためには切っても切れ離せないものとして、認識されていたように思う。とくに大学受験の頃などは、英単語の暗記という作業は、こと記憶力という点でたいした能力をもっていない私にとって、大きな苦痛だったことはよく覚えているのだが、そのなかでもとくに気になる単語として「restaurant」があった。日本語でも文字どおり「レストラン」を意味するこの単語のつづりについて、たとえば「au」を「オ」と発音するのはわからなくもないが、なぜ最後の「t」を発音しないのか、どうにも納得いかなかったのだ。英語の発音方法やスペルに慣れていた私としては、この単語だけ浮いた感じがどうしても拭えなかったのだが、とある大学の文学部に入り、第二外国語としてフランス語を学ぶようになって、この違和感は解消された。「restaurant」はもともとフランス語で、後に英語圏に輸入された単語だったのだ。

 けっきょくのところ、英語もフランス語も普通に読み書きができるというレベルには遠く及ばないまま今に至っている私であるが、それでも、てっきり英語だとばかり思っていた「restaurant」がフランス語だという事実を、文字どおり実感することができたのは、フランス語という外国語を習う機会があったからである。そして同時に、それまで知らない言葉であったはずのフランス語の単語が、意外と私たちの生活の身近なところに――たとえば喫茶店やマンションなどの固有名詞として――使われていたという事実に驚いたこともよく覚えている。

 言うまでもなく、私の母語は日本語であるが、本書『エクソフォニー−母語の外へ出る旅−』を読むまでは、私のなかで「母語」という言葉を意識することすらなかった。それだけ、私にとって日本語で読み書きすることが、あたり前のこととなっているということであるが、そのせいで見えにくくなっていること、使われなくなっている能力がいくつもあるのだろう、と思わせるものが、本書のなかにはたしかにある。

 本書は大きく二部構成となっていて、第一部は「母語の外に出る旅」、第二部は「ドイツ語の冒険」というサブタイトルがつけられている。著者の多和田葉子は、略歴を見てみると1982年からハンブルクに在住している作家で、日本語でもドイツ語でも小説を書いているという。日本人でありながら日本語以外の言語で小説を書く、ということについて、当初はずいぶんと奇異な感じがしたものだが、よくよく考えてみると、日本語を母語としているのが日本人だけだ、という状況が、けっして世界的な標準というわけでないことに気づく。たとえば、フィリップ・クローデルの『リンさんの小さな子』を読んだときに、リンさんが亡命した先の国の言葉のなかにフランス語の会話があり、私はてっきりそこがフランスだとばかり思っていたのだが、フランス語はカナダでも話されているし、かつて植民地だった国々で、フランス語を母語としているところもある。その言葉だけで国を特定することはできない――上述の「見えにくくなっていること」というのは、そういうことも含んでいる。

 全体としては、いくつもの短編を集めたエッセイ集という形式をとっているが、とくに第一部における、町の名前をタイトルとするエッセイを読んでいくと、「ハンブルク在住」という言葉が疑わしくなるほど、著者はじつにさまざまな国や町へと旅をしている。そして、まるで著者自身がどこかに定住すること、どこかの国の住人となることに対して、抵抗しているようなところさえ見受けられる。「夢は何語で見るのか」という質問に「ちょっと頭にくる」というエピソードが本書のなかにあるのだが、著者にとって、自分の使う言葉が日本語であるとかドイツ語であるとか、あるいは英語やフランス語であるとかいった区分に、重要性を見出していないというのが、本書を読んでいくとよくわかってくる。それは、純粋に言葉というものの可能性――どこの国の言語であるとかいった枠組みを越えたところにあるもの――について、ことのほか敏感でありたいという著者の思い入れの現われでもある。

 だからこそ、本書のなかにある著者の言葉に対する発想や、その目のつけどころは、読者にとって新鮮なものとして映るし、非常に興味深い。日本語なのにアルファベットを使わなければ表記できない「Tシャツ」や「CD」といった単語を自身の小説でもちいることに抵抗を覚えたり、辞書というひとつの「秩序」について、その並び順がアナーキーだと感じたり、あるいはドイツ語の「nur」という小さな単語に強い思い入れをもったり、「夕涼み」という日本語を「use済み」と変換してしまったり、といったことが、本書のあちこちで起こる。まるで、日本語とドイツ語、さらには他のさまざまな言語の境界を取り払って、自由自在に切ったりつなげたりするかのようなその感覚は、作家というよりはむしろ詩人の思考に近いものがある。ただそれは、日本語だけでなく、それをふくめた複数の言語をとりまぜて生活しているがゆえに持ちえた強みである。

 わたしはたくさんの言語を学習するということ自体にそれほど興味がない。言葉そのものよりも二ヶ国語の間の狭間そのものが大切であるような気がする。わたしはA語でもB語でも書く作家になりたいのではなく、むしろA語とB語の間に、詩的な峡谷を見つけて落ちて行きたいのかもしれない。

 以前、同著者の『容疑者の夜行列車』を読んだときに、その登場人物や列車での「移動」という点について、どこかに属させることを意図して避けているような印象を受けた覚えがあるのだが、そのラストの展開が読了した当時はあまりピンと来なかった。だが、本書を読むことで妙に納得のいくものとして、あらためて受け取ることができたような気がする。作家のエッセイを読むことの楽しさは、こんなところにもある。

 日本語はオノマトペの分野では、他の言語には見られないほどの豊かさをもっているとされている。それは日本語の大きな特長といえるものではあるが、そこにはあくまで「日本語の」という限定がついてしまう。本書のタイトルにもなっている「エクソフォニー」とは、「母語の外に出た状態一般」のことを指し、「移民文学」や「クレオール文学」よりも肯定的なものとして著者は解釈している。それは、けっして母語だけに縛られることなく、そこから積極的に外へ出て、言葉のさらなる可能性を追求していくという冒険心に溢れた試みであり、挑戦でもある。そういう意味で、著者にとっての旅をしているという状態は、いかにも著者のあり様としてふさわしい。(2008.02.11)

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