【新潮社】
『エコー・メイカー』

リチャード・パワーズ著/黒原敏行訳 

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 もともと私は自分というものに懐疑的な考えをもつ者であるが、自分が他の誰でもない、まぎれもない自分自身であると認識する「自我」というものを考えるとき、いったい「自我」は何を基準として自分が自分であることを判断するのか、不思議に思うことがある。たとえば人間は、毎日のように眠っては目を覚ますという行為を繰り返しているが、昨日眠りに落ちた自分と、翌日になって目覚めた自分とが、連続した自分であることをあたり前のように認識する根拠を、どこからもってきているのか。また、人間は永久に変わらないわけではなく、日々少しずつ変化しているのに、その変化をまぎれもない自分の連続体として認識できる――五年前の自分と今の自分が、いずれも同じ自分であると認識できるのはなぜなのか。

 私が自分自身について常に信用ならないと感じているのは、過去において自分の感情や判断に手酷く裏切られた経験があるからに他ならないが、そもそも「自我」というものが何なのかを考えると、けっきょくのところそれはただの約束事にすぎないことがわかってくる。漠然と自分と他者とを区別し、同時に時間の経過による自身の変化を大雑把に連続した自分として判断するものを、誰かが「自分ということにしましょう」ということで生まれた約束事、それが「自我」というものの正体だとするなら、私たちの考えているまぎれもない自己というものは、ずいぶんと脆い基盤の上に立っているものだと言わざるを得ない。それこそ、ちょっとした衝撃で崩れ去ってしまうような、そんな脆さと隣り合わせなのが「自我」なのだと。

 身体は私たちの唯一の家だが、実は場所というよりは絵葉書に近い。私たちは筋肉や関節や腱の中ではなく、それらについての観念や像や記憶の中に住んでいる。直接の感覚というものはなく、噂や信用ならない報告があるだけである。

 本書『エコー・メイカー』というタイトルは、北アメリカの先住民族が渡り鳥である鶴に敬意を表して呼んだ“谺を作る者”からとられたものであり、また本書の舞台となるアメリカのネブラスカ州にあるカーニーという町は、繁殖地に渡るカナダヅルが一時期羽を休める場所として有名でもある。そんな田舎町に住む弟マークが自動車事故を起こしたという知らせを病院から受けたカリン・シュルーターは、頭部にひどい損傷を受け、生死の狭間をさまよう弟のたったひとりの肉親として、必死に看病をつづけていた。奇跡的に意識を取り戻し、長期のリハビリが必要であると言い渡されたときも、それまで積み重ねてきたキャリアを棒に振ってでも弟の回復に献身することを決意したカリンだったが、ようやく人並みに動いたり話したりできるまでに回復したマークは、カリンを自分の姉だと認識することができなくなっていた。

 カプグラ症候群と呼ばれる、自分の愛する人を誤認してしまうというある種の精神疾患をテーマとする本書であるが、マークはただたんにカリンのことが認識できないのではなく、認識できないことに対して強い妄想を組み立てることで自身の壊れた世界を補完しようとしている点が、この物語のキモとなっている。今のマークにとって、カリンは姉に非常に良く似た偽者であり、本物の姉はなんらかの理由で自分に会いに来られない状態にある、と思い込んでいるのだ。カリンがどれだけ理路整然と事故や疾患のことを説明し、また姉弟しか知らない事実をどれだけ並べたてても、そもそもカリンを偽者と思い込んでいるマークは、より強い妄想によって目の前の女が偽者であることの論理を組み立ててしまう。たとえば、自分は政府による大掛かりな陰謀に巻き込まれている、とかいうふうに。

 目の前に姉がいるにもかかわらず、その姉を姉として認識できない弟と、弟のためにすべてをなげうって尽くしているにもかかわらず、当の弟に自分が姉であると認めてもらえない姉という、単純なのにこのうえなく複雑な状況に理不尽にも放り込まれたふたりの関係を軸に、なぜかそんなふたりのために職分を越えた親切を見せる介護助手のバーバラや、弟の事故がもとでカリンとよりを戻すことになった自然愛護家のダニエル、あるいはマークの疾患の調査のためにニューヨークからやってきた著名な認知神経科学者で、その手の本を一般書で多く出版しているジェラルド・ウェーバーといった人物が絡んでいく本書は、当然のことながら弟の疾患が治癒されるのかどうか、カリンとマークの関係が元に戻るのかどうかという読みどころを原動力に物語が進んでいくわけだが、それ以外にも、マークが事故に遭ったときの不可解な状況や、集中治療室に残されていた、マークの第一発見者のものらしき謎のメッセージなど、ミステリーとしての要素もまじえつつ読者の興味をひっぱる構造をもっており、けっして短くない小説でありながらも読み手をぐいぐい物語のなかに引き込む力をもっている。だが、なによりも興味深いのは、そのタイトルにもなっており、また本書の冒頭でいきなり描写される渡り鳥としてのカナダヅルの、物語における立ち位置である。

 毎年遠く隔てられた繁殖地をめざして旅立ち、そしてまた同じ場所へと戻ってくる渡り鳥――じつは本書のなかで、カリンのこれまでの人生が似たようなベクトルを描いていることが本書を読み進めていくとわかってくる。今でこそ故郷近くの町にあるパソコン会社のコールサービスで働いているカリンには、以前はアメリカの大都市で順調にキャリアを積み重ねてきたという過去があった。そして今回の弟の事故は、さらに彼女を故郷の土地へと引き戻すことになる。故郷ではない土地で、ひとりの女として羽ばたこうとするたびに、何かが足をひっぱって故郷へと引き戻されるというある種の回帰のベクトルは、やがてダニエルをつうじて知ることになるカナダヅルの保護活動へとつながっていくことになる。そして脳に損傷を受け、姉を姉として認識できないという別世界を生きなければならなくなったマークにとっては、事故以降の生そのものがひとつの旅の過程であるとも言える。

 だが、じっさいにはマークは渡り鳥のように旅をしているわけではなく、ただ物事への認識が変化したというにすぎない。そしてこの変化――マークにとっては不慮の事故によって引き起こされた、強烈な妄想世界を見るという変化は、しだいに彼にかかわる周囲の人たちにも影響をおよぼし、それはやがて、国全体、あるいは人類全体というスケールの視野へと読者を導いていく。自分は変わらない自分自身であるという確固たる認識――だがそれは、人類が進化の過程において肥大させた大脳の、ある部分によって引き起こされる生存戦略のひとつにすぎず、私たちは人間である以前に生物であるという事実は何も変わってはいない。本書のなかでマークの主治医がカリンに説明したように、何より人間の脳の構造が、そのことを雄弁に物語っている。

 人間が万物の霊長と勝手に自分たちを呼びあらわすようになってから、私たちは自然のサイクルからずいぶん遠いところまで進んできてしまっているように思える。それが進化の過程によるものなのか、あるいはもっと別の要因があるのかはわからないが、もしかしたら私たちは、たんにそんなふうに脳に思い込まされているだけであって、本当は相変わらず同じ場所にいて、ただその場で足踏みしているだけなのではないか――マークの疾患が登場人物たちに突きつけるのは、まさにそうした疑問なのだ。

 ……聴覚がただ惰性的に音声を聞きとっている時、カリンはふと思った。人類全体がカプグラ症候群を患っているのだと。鶴の群れは私たちの肉親のように踊る。私たちの肉親のように見える。――(中略)――ところが人間は鳥たちを退ける。偽者だ、と言って。

 本書ではジェラルド・ウェーバーの口をつうじて、脳の機能の一部が引き起こす不具合によって、信じられないようなモノの見方をしてしまう人たちの症例が出てくるが、そうしたものが人間の心や自我のありかをどこまで解き明かしていくのかは、彼のマークに対してやってきたことを考えるとはなはだ心許ないものだ。治るのかどうかわからないままに、壊れた世界をただひとつの真実として生きていくしかない人たち――いや、そもそも自分は正常だと思い込んでいる私たちにしたところで、脳が私たちを騙し、見えないものを見せ、聞こえないものを聞かせているのではないか、という疑いを捨て切ることはできはしない。自分とは何者で、どこから来てどこへ行くのか、というある種の使い古されたテーマに、あえて正面から取り組んだ本書が見せる世界を前に、はたしてあなたはどんな思いにとらわれることになるのだろうか。(2012.11.28)

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