【河出書房新社】
『エンドレス・ワルツ』

稲葉真弓著 



 栗本薫の大長編ファンタジー「グイン・サーガ」の主要登場人物のひとりとして、イシュトバーンという青年が登場する。このサーガの初期の頃から登場し、かつてはグインとともに辺境の地を冒険した陽気な傭兵であり、その優男的なルックスと、どこか悪戯小僧のような子どもっぽさで、男女問わずその人柄に惹かれずにはいられないというキャラクターなのだが、そのいっぽうで、いったん何かを求めると偏執狂的なこだわりを見せ、どれだけ相手がその愛や忠誠心の深さを示してもけっして満足できず、およそ限度を知らない貪欲さでさらなる愛や忠誠心を求めずにはいられないという一面を併せ持っている。その結果、彼の周囲には死者の山が築かれ、一国の王になるという夢ははたしたものの、けっして満たされることのない愛情――それも、自分勝手で一方的な、歪んだ愛情ゆえに、いつしか残忍な王としての道を突き進むことになっていくのだが、その過去におおいに同情すべき点がありながら、相手のあらゆる自由を束縛するような絶対の愛情を求め、それが手に入らないとわかると一転して、憎悪の炎で自分も相手も焼き殺してしまうような性格が見えはじめた頃から、この狂的なキャラクター造詣は、いったいどういうことなのだろうか、とふと考えたことがある。

 イシュトバーンが求める愛情が、もし絶対的なものでなければならないとしたら、それを自身と同じ人間の内に求めるかぎり、けっして手に入ることはない。なぜなら彼自身、何度も仲間や恋人を裏切るような行為を過去に繰り返しており、人間の抱く愛がけっして絶対的なもの、永劫につづくものではないと誰より彼自身が薄々気づいているからである。けっして手に入らないものを、それでも執拗に求めずにはいられない心――私が本書『エンドレス・ワルツ』を読んで、まず思い浮かべたのが「グイン・サーガ」のイシュトバーンという架空の人物であったというのは、なんとも不思議なことではあるのだが、本書に登場するアルトサックス奏者で、また語り手である鈴木いづみの婚約者でもある阿部薫という人物は、たしかにイシュトバーンを髣髴とさせるものがある。それは、どちらも中途半端なもの、不純なもの、いい加減なものに対する過剰なまでの嫌悪感であり、極端なまでに完璧さを求めるある種の純粋さでもある。

「僕は全部を上げられる。君の欲しがるものならなんでも。絶対的な愛とは、そういうものだ。君が死ねと言えば僕は死ぬ。だから僕が死ねと言ったら君は死ななくちゃならない。僕の言う愛はそういう愛だ」

 鈴木いづみと阿部薫とのセンセーショナルな関係――愛情と、それと同じくらいの憎悪によって彩られた結婚生活については、彼女の自叙伝的要素の強い『ハートに火をつけて!』に詳しいのでここであらためて語ることはしないが、およそこんな言葉を何のてらいもなく相手に投げかけることができるということ自体、阿部薫という人物の異常性を語るに充分なエピソードであることは疑いのないところではある。そして、何より私が凄まじいと思わずにはいられないのは、彼がその言葉を口にしたまさにその瞬間において、それがまぎれもない真実を語っているに違いないという点である。

 阿部薫の言葉には、けっして嘘や作為というものがない。ただ、彼のなかでは時間の流れというものが、おそらく完全な整合性のとれるものとして認識されていないところがある。もう二度と殴らない、暴力はふるわない、という彼の言葉は、しばしば裏切られる。それは傍から見れば矛盾以外の何ものでもないのだが、何よりその刹那を生きようとしている彼にとっては、その瞬間こそがすべてであり、逆に言えばその瞬間さえ真実であれば、それで問題がないとされてしまうのだ。それは、ジャズという即興性を重んじる音楽において、その瞬間の自身の感情をアルトサックスを使って爆発させる阿部薫には、あまりにもふさわしい考え方であり、態度だと言わなければなるまい。

 過去を回顧するわけでもなく、未来に目を向けるわけでもない、ただ今という瞬間だけに生きるエネルギーのありったけを注ぎ込もうとする阿部薫の生き方は、たしかに鈴木いづみが言うように、生きるということに対してこの上なく純粋な生き方である。人は生きていくうえで、常に時間の経過を念頭に置いているし、だからこそ長期的な人生計画を建て、そのはるか彼方にある目標に向かって毎日少しずつ努力を積み重ねていくことができる。人間がもつ欲望の大半――たとえば、お金であるとか名誉であるとか、あるいは権力や安定した生活といったものの大半は、これから先の未来が今と同じように続くという前提を信じて疑わないからこそ抱けるものであって、もし近いうちに自分が死ぬとわかってしまったら、そうした欲望は何の意味ももたなくなってしまう。阿部薫にとって、その程度の欲望がこのうえない不純なものであっただろうことは、想像に難くない。そしてそれは、鈴木いづみにしても同じことである。

 しかしなぜだろう。私は彼を嫌いになれなかった。――(中略)――彼にはどこか無垢なものを感じさせるなにかがあった。とつとつと音について話すとき、私を裸にして嬉しそうに笑うとき、彼はひどく無邪気に見えた。

 冒頭でとりあげた栗本薫という作家は、たとえば『真夜中の天使』や『レダ』など、その刹那を懸命に生きようとした人物がよく出てくるのだが、栗本薫も鈴木いづみも、そして本書の著者も、いずれも似たような時代に生まれ、似たような時期に作家としてデビューし、そしておそらく、同じような青春を謳歌していたのではないか、という奇妙な確信が私にはある。今しかない青春を、その瞬間に完全燃焼するために、どこまでも酔うことのできた時代――私にとって1970年代という時代はけっして実感のともなわない時代でもあるのだが、後先考えずに都会へと飛び出し、薬をキメてその刹那を生きた若者たちの、目もくらむようなエネルギーの奔流の一端が、本書のなかにはたしかに息づいている。そして、その時代をもっとも象徴しているのが阿部薫であり、鈴木いづみであるとするなら、そんなふたりの、今という瞬間を衝突させるような、ヒリヒリする生き方が、今もなおさまざまな人に大きな影響をおよぼしているというのも、おおいにうなづけるものがある。たしかに、まぎれもない今だけを生きるような激しさは、今の時代にはなかなか見出せない要素である。

 けっして満たされない愛を貪欲に求めつづけた阿部薫と、その貪欲さに真正面から応えようとした鈴木いづみ――そのあまりに激しく、それゆえに自分も相手もどうしようもなく磨り減ってしまうような、そんな愛の形を愚かだと笑うのは簡単だ。だが、今という時代を生きる人たちのなかで、彼らほどの激しい生き方をしている者が、はたしてどれくらいいるだろうか。あらゆる意味で純粋な、しかしそれゆえに破滅的な愛の顛末は、ここではない世界で終わらないワルツを踊るという形でしか実現し得なかった。それが、何よりも悲しい。(2007.03.14)

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