【ポプラ社】
『食堂かたつむり』

小川糸著 



 ひとり暮らしの長い私であるが、じつは食事についてはほとんどが自炊でまかなっていたりする。それは単純に経済的な問題と、あと、ひとりで外食するのがどうにも苦手という事情もあるのだが、慣れてしまえば日々の自分が食べるぶんの料理をこしらえることは、それほど苦痛というわけではなくなっているし、スーパーでその日安い食材を見つけて、そこから今夜何をつくろうかと考えるのは、それなりに楽しいものだとも感じている。そういう意味では、あるいは私は料理に向いている部分があるのかもしれないが、それでも他人に対して「私は料理ができる」と言ってしまうことには、多少の抵抗を覚える。

 なぜなら、私のつくる料理はあくまで私自身が食べるためのものにすぎず、他の誰かのためにつくってあげるというものではないからだ。私の料理は飢えを満たしてはくれるが、心の栄養まで満たしてはくれない。そしてそれは、料理というものを考えるさいの、重要な要素のひとつでもある――そんな確信めいたものを、今回紹介する本書『食堂かたつむり』を読んで感じないわけにはいかなかった。

 そしてもし、この山あいの静かな村で料理を作ることが叶うのなら、自分は今度こそしっかりと大地に足をつけて生きていける。そんな予感が、体の奥底からマグマのように湧き上がってきた。

 同棲していたインド人の恋人に家財道具ごと逃げられ、ほとんど無一文になってしまった倫子は、およそ十年ぶりにふるさとの実家に舞い戻ることになった。プロの料理人になることを目指し、都会のレストランや料理店を転々としながら修行を積んでいた彼女のそのときの夢は、恋人と共同で飲食店を開くことだったが、恋の終わりとともにその夢も潰えてしまう。そのショックは、倫子から声を奪うほど大きなものではあったが、けっして嫌いではなかった故郷の豊かな自然は、彼女に別の可能性を示唆する着想を与えた。このふるさとの村で、新しく食堂をオープンさせることはできないだろうか。

 こうして倫子が、とかくソリの合わない母親から実家の物置小屋を借り受けることで立ち上げることになった「食堂かたつむり」を中心に、そこに集まる人たちとのいっぷう変わった交流や、ちょっとした悲喜こもごもを展開していく本書であるが、この食堂が一日にひと組の客しか受け入れない予約制であること、固定のメニューというものが存在せず、事前の客との面談によってメニューが決まることなどを見ても、彼女が少なくとも効率的に利益をあげることを目的としているわけでないことは、すぐに気がつくことである。そもそも倫子が故郷に戻ってきた時点で、彼女は無一文になっている。ほとんどゼロの状態から、誰かに食事を供する場所を立ちあげるためには、その土地にあるさまざまなものの力を借りるしかなかったし、ふるさとの豊かな自然は、彼女を助けるに充分なものを与えてくれる。

 見渡せば、海、山、川、畑。
 すべてが食材の宝庫だ。都会に較べたら夢のように恵まれた環境なのだ。

 利益を出す、金を稼ぐというのは、今の私たちの生きる社会において、ほとんど暴力的な支配を強いている価値観だ。そして本書のコンセプトは、間違いなくそれとは真逆のものである。それゆえに、本書ではそうした経済的な要素、とくに金銭的な点について、注意深く描写を避けているところがある。本書の舞台が都会から離れた辺境の村であるといった部分もそうだが、何より本書冒頭における倫子の行動――恋人に持ち逃げされた店の開店資金よりも、祖母から受け継いだぬか床の壺のほうを心配するという彼女の性格からもそれは見てとれる。

 言うなれば、倫子がはじめた「食堂かたつむり」――けっして喫茶店でもレストランでもなく、食堂であることが重要なのだが――は、経済活動というサイクルから遠く離れたところに位置するものである。では、その「食堂かたつむり」が金銭の代わりに何を回しているのかといえば、それは「金銭では買えない何か」というものになる。「食堂かたつむり」で食事をした人たちが、長年夢みていた願い事が叶ったり、以前よりも若く、華やいで見えるようになったり、あるいは意中の人との恋が実ったりといった、ちょっとした奇跡が起き、それが口コミで評判になっていくという展開は、たとえば結婚前のカップルのために、オリジナルのブーケをつくることで評判となるヴァネッサ・ディフェンバーの『花言葉をさがして』にも見られるものであるが、フラワーアレンジメントにしろ料理にしろ、たんに綺麗であったり食欲を満たすというだけではない、心のなかの足りないものを満たすための行為とつながっている。

 あるいはそれは、「まごころ」という言葉で言い表わしてもいいものかもしれない。それはけっして貨幣のように目に見えるものではないし、また何らかの対価を要求できるものでもない。だが本書を読んでいくと、倫子はその「まごころ」を与える以前、「食堂かたつむり」の準備の段階で、すでに多くの「まごころ」を周囲から受け取っていると考えていることが見て取れる。そのとき私たちは、「食堂かたつむり」が貨幣ではない何かを回すことで、社会を成り立たせていくという小さなモデルとなっていることに気づく。そして同時に、そのサイクルが唯一成立していないのが、母親ルリコとの関係であることも。

 さまざまな材料からひとつの料理ができあがっていく過程を――それこそ豚の解体過程にいたるまで――丁寧に描写しながらも、それがけっしてくどいわけではなく、むしろ読んでいるこちらが食べてみたいと思わせる文章力は、著者自身の料理に対する並々ならぬこだわりを思わせるものがある。食欲という、本来は動物的な欲求を満たす料理というものの可能性と、語り手でありながら声を失ってしまった倫子の、料理をつうじて再構築されていく人と人との関係が、どのような形を私たちに見せてくれるのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2012.10.07)

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