【ソフトバンククリエイティブ】
『大聖堂』

ケン・フォレット著/矢野浩三郎訳 



 世界は本来、ただあるがままに存在しているにすぎず、そこにはどのような価値観も美意識も入り込む余地はない。にもかかわらず、そこで生きる私たちは、ときにそれらの造形物をこのうえなく美しいと感じてしまうことがある。

 何かを愛でるという心の動きは、ただ生存し、子孫を残すという目的においては余計なものだ。何事も単純なものは壊れにくいし、複雑なものはそれだけ壊れやすいのと同じように、美しいものや醜いものに敏感に反応する私たち人間は、それだけ他の動物とくらべてハンディを負っている、という見方もできる。だがそのいっぽうで、私たちはそうした心の動きゆえに、思いもかけない欲望をいだいたり、思いもかけないものを生み出したりすることがある。それは良きにしろ悪しきにしろ、いかにも人間らしい心の動きであり、またそこからさまざまな人間ドラマが生まれてくる余地をつねにはらむものでもある。

「美しい大聖堂を建てたいからです」
「美しい大聖堂を建てたいから、か」
――(中略)――「そうだな、神のために美しいものを作ること。これに優ることはない」

 今回紹介する本書『大聖堂』は、まさにそのタイトルどおり、大聖堂建立をめぐる壮大な物語であり、その中心にあるのがキングズブリッジ修道院の大聖堂である。時は十二世紀のイングランド、かつては国内最大の修道院であったキングズブリッジ修道院は、今では修道院長の怠惰と無気力のせいで衰退の一途をたどり、その大聖堂も一部が崩落していながらそれを修理するための金もなく、集められた浄財もうまく運用して増やしていくどころか、無駄に使い潰され、あげく多額の借金をかかえているというありさまである。

 この問題だらけの修道院を中心に、さまざまな登場人物たちが、それぞれの思惑や野望をいだいて複雑に絡み合う人間ドラマを展開していくことになるのだが、本書の人間関係を整理するには、大きく三つのグループにわけて説明するのがわかりやすい。ひとつは、建築職人たちのグループ。これは、大聖堂を直接建設する立場の者たちであり、物語当初の中心人物として、トム・ビルダーとその家族たちがいる。トムはすぐれた建築職人であり、その気になれば町の城壁修理などの監督として、生涯安定した職を得ることも可能な腕前をもっているのだが、彼らの家族は職をもとめて町から町を放浪し、ひどく飢えていた。というのも、トムのなかには大聖堂の建設を生涯の仕事にしたい、という果てしない夢を抱いているからなのだが、さまざまな紆余曲折の末、トムはキングズブリッジ修道院に辿り着き、崩落した大聖堂を建て直す棟梁として落ち着くことになる。

 もうひとつのグループは、修道士を中心とする聖職者たちのグループで、おもに大聖堂建設のための資金や運用まわりを捻出する者たちであり、その中心にいるのがフィリップ修道士である。幼いころに両親を内乱で失くし、それから修道院に引き取られて育てられた彼は、成人してからも神に仕えるという修道士としての努めに誇りと情熱をもち、出先機関である分院の修道院長として活躍していたが、キングズブリッジ修道院本院に赴くたびに、その荒廃と腐敗ぶりに腸が煮えくり返るような怒りと焦燥を感じずにはいられなかった。なんとかして修道院の経営を立て直し、修道士の本来の役割を滞りなくつづけられるようにしたい、とくに、人々の信仰の拠り所でもある大聖堂をなんとかしたい、という彼の不断の思いは、ついに彼を新たな修道院長に押し上げ、大聖堂建設に大きくかかわらせていくことになる。

 そしてもうひとつ、本書を語るうえで欠かせないのが、国王やシャーリング伯爵をはじめとする支配階級に属する人たちのグループである。当時のイングランド王は世継ぎに恵まれず、国は内乱の戦火に包まれている状態であり、また国王と大司教との反目の問題もあって、大聖堂建設がその情勢によっていちいち振り回されるという演出にひと役買うことになるのだが、じつは彼らの存在は、本書のプロローグとして語られる、ある男の絞首刑という、一見すると物語の本筋とは関係のなさそうな出来事と密接なかかわりをもっている。

 修道院の聖杯を盗んだとして処刑されたひとりの男と、それを決定した者たちを呪って姿を消したひとりの女――エリンという名のその女性は、息子のジャックとともに十年以上も森のなかでアウトローとして生き、後にトムたちとも深いかかわりをもつことになるのだが、このプロローグのもつ謎に焦点をあてたとき、この一連の物語は、その謎を明らかにするという目的のために書かれたミステリーとしての側面を持ち合わせていることが見えてくる。そしてそれは、イングランドの内乱にもかかわる重大なものであり、大聖堂建設にも大きな鍵をにぎるものとしてそのストーリーに生きてくることになる。だが、何より本書が魅力的なのは、大きな困難に打ちのめされ、一時期は挫折を味わっても、それでもなおおのれの信じる道を曲げることなく、再び立ち上がり、目標に向かって進んでいく人たちの不屈の意思の力がドラマチックに書かれている点にこそある。

 昨夜、フィリップはこの大聖堂の崩壊を、超自然的な悲劇であり、文明と真の信仰との惨めな敗北であり、彼自身のライフワークへの痛撃であると考えていた。それがいまは、乗り越える気になれば乗り越えられないことはない、眼前の障壁のように見えている――たしかに茫然とするような、とてつもない障壁ではあるが、けっして人力の及ばないほどのものではない。

 じっさいに本書を読んでいくとわかってくることであるが、トムがキングズブリッジの大聖堂の建設にかかわり、フィリップがあらたな修道院長としてその手腕を振るうに到るまででさえ、じつにさまざまな艱難辛苦を乗り越えてきている。ようやく建設にとりかかっても、修道院が資金難であることにかわりはなく、なんとかその材料や財源を確保しなければならないのはたしかなのだが、そこにあらたにシャーリング伯になったウィリアム・ハムレイや、キングズブリッジの司教であるウォールラン・バイゴッドといった者たちの執拗な嫌がらせや邪魔が入るし、そのうえ政情不安定な状況や大規模な飢饉といった災害が加わって、その計画は何度も頓挫寸前にまで追いつめられていく。

 はたして、大聖堂は本当に完成するのか? 何十年という時間のなかで繰り返される、大聖堂をめぐる者たちの愛と憎しみ、希望と絶望が入り乱れていくなかで、しかし私たちは少しずつ、しかし着実に完成へと近づいていく大聖堂が、まさにキリスト教的な正義、正しい道理の象徴であると同時に、また物語のしかるべき形の完成形をも象徴しており、そのあらゆる要素がやがて大聖堂という一点に集約されていくダイナミズムをたしかに感じとることになる。それは、正しい行ないをした者はむくわれ、悪しき心をもつ者はしかるべき罰を受けるというある種の勧善懲悪であり、そういう意味ではアレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』を髣髴とされるものがあるのだが、本書のなかでそれを実現させるのは、人々の信仰の力――神の存在がどうとかいうことではなく、多くの人たちの強い想いが生み出すものなのだ。

 神のための建築物であるがゆえに「完璧」でなければならない大聖堂――だが、それをじっさいに建てる人間はけっして完璧な存在ではない。じっさい、トムにしろフィリップにしろ、誰もが一途ではあるがある方面にかんしては妙に頑固であったり、意固地な側面をもっていたりする。そしてそれゆえに、なかなか物事が思いどおりにいかなかったりすることもある。だが、けっして完璧ではない人たちが、それぞれの思いを胸に、美しい大聖堂の完成のために力をあわせる姿、そこから生まれてくる物語の形はこのうえなく美しいと私は感じる。その波乱万丈の物語をぜひとも味わってもらいたい。(2009.06.06)

ホームへ