【太田出版】
『永続敗戦論』
−戦後日本の核心−

白井聡著 



 以前読んだ赤坂真理の『東京プリズン』は、ひとりの少女による「東京裁判」、日本の戦争責任者を裁くための軍事会議の再定義を書いたフィクションであるが、この作品のもっとも大きな意義として評価されるべきなのは、私たち日本人がすでに意識することすら難しくなっている「戦争」を語ること、より具体的には、日本という国が第二次世界大戦における敗戦国であるという、あたり前の事実を突きつけることにこそあった。なぜなら、そうした事実を語ることに対して、日本社会全体がどこかタブー視している部分があることを、この作品は直面させずにはいられないからだ。

 泥沼の太平洋戦争を題材とした日本の小説は少なくないし、私もこれまでにそうした作品に触れる機会があったが、いずれも戦争の悲惨さや残酷さといった、日本がこうむった被害を書くことはできていても、日本が振りまいた被害のこと――敗戦国としての責任――を書くことのできていた作品は、少なくとも私がこれまで読んだ小説のなかでは皆無だった。そして、日本のプロの作家陣たちをもってしても、これまで『東京プリズン』のようなテーマで作品を書くことに到らなかったことにこそ、戦後日本のかかえる深刻な病理の一端がうかがえるように思える。少なくとも、今回紹介する本書『永続敗戦論』には、私にそうした視点を意識させるものがたしかにあったのだが、本書の場合、その契機となったのはいわゆる「3.11」、東日本大震災によって生じた福島第一原発事故である。

 われわれが肝に銘じなければならないのは、こうした「侮辱」のなかを生きさせる権力の構造、社会的構造は、三・一一そのものによって立ち上がったものではない、ということだ。それは、この国の歴史のなかで不断に存続・維持・強化されてきつつも表面上は隠されていたものが、誰の目にも明らかな形で現れてきたものにほかならない。要するに、現存の体制は戦前・戦中さながらの<無責任の体系>以外の何物でもなく、腐敗しきったものと成り果てていた。

 上述の引用中にカギ括弧つきで書かれている「侮辱」とは、重大な失態や明らかな過ちに対して、誰ひとり責任を取ろうとしないばかりか、時の経過にまかせてその責任をあやふやなままにしたり、上辺だけ取り繕って終わったように見せかけようとする日本社会の本質的な欺瞞のことを指している。「3.11」以降、日本のなかで何が変化したのか、あるいは変化しようとしつつあるのかを捉えようとする動きがさかんであるが、本書ではそこに「戦後の終わり」という区切りを見いだそうとしている。

 これは本書のサブタイトルになっている「戦後日本の核心」という言葉にも結びついてくるものであるが、ここで言うところの「戦後の終わり」とは、たんに「終戦」から何年経ったとか、あるいは何らかのイベントを迎えたとかいったことではなく、もっと精神的なもののことを指しており、それはある意味で「けじめ」をつけるということに等しい。

 たとえば原子力発電について、私たちはそれが「安全なもの」だということをさんざん聞かされてきた。だが同時に、その安全なはずの原子力発電所が、都心から遠くはなれた地方にのみ建てられているという事実についても充分知悉していた。もし政府の言うとおり、原子力発電が本当に安全だというのであれば、他ならぬ都心に発電所を建てればいいはずである。電力を消費する場所に発電所を建てる――これほど合理的なことはないはずなのに、そうしないのは、原子力を利用することの危険性を何よりも雄弁に物語るものでしかない。

 ある意味で小学生にでもわかるような理屈や事実を完全に無視し、それとは正反対のことを盲目的に唱えつづける――こうした国の指導層たちの態度は、たとえば完全な軍隊を「自衛隊」と言い換えることで「軍を保有していない」と強弁したり、アメリカの意向に逆らえない事実上の属国扱いでありながら、まるで日本を主権国家であるかのように喧伝したりといったことと同様、幼稚で欺瞞的なものと言っていいものだ。そしてその結果として起こった「3.11」で犠牲を強いられたのは、他ならぬ国民である。国が国の名のもとに行なう事柄はたいていろくなことでないのは世の常ではあるものの、仮にろくでもない事態が露呈したならば、そのことに対して何らかの「けじめ」をつけるというのは、その先に進んでいくために必要なことである。

 だが、戦後の日本はその「けじめ」をきちんとつけられない状態にある、と本書は語る。「3.11」以後、あからさまな形で露呈することになった日本の権力者や識者たちの無責任ぶりに言及しつつも、じつはそうしたろくでもない<無責任の体系>が、誰もが負けるとわかっていながら、それでもなお第二次世界大戦へと突入していった当時の体制とまったく変わらないものであることを指摘している。戦前、戦中と戦後でその体制がまったく変わっていないのであれば、それはそもそも「戦後」ではなく、それゆえに日本は戦争に負けてはおらず、いつのまにか「終わった」という認識をもちつづけることができる。そしてその認識は、かつての敵であったはずのアメリカに対する際限のない従属によって支えられている。こうした自縄自縛のグロテスクな構造を、著者は「永続敗戦」と名づけることで、これまで巧妙に隠され、意識されずにいたものを明確化することに成功した。

 この「永続敗戦」という概念で日本の戦後を捉えなおすという本書の試みは、私をふくめる日本人の大半を気鬱にさせるたぐいのものである。とくに外交面における本書の果断ない指摘は、日本という国の「国際化」がいかに稚拙なものでしかないかを裏づけるものであり、そこには「恥」の意識すら芽生えてくる。「永続敗戦」の概念が、そのまま「戦後の否定」につながるのだとすれば、それはいかにも当然のことで、私たちは言ってみれば、あの愚かな戦争へと突き進んでいった頃と何ひとつ変わらず愚かなままであり、戦後築き上げてきた民主主義も、経済的成長も、そしてそこから構築された「平和と繁栄」も、すべてはまやかしにすぎないということになる。

「戦後」は実質的に終わりながら、それはさらに際限なく永続しようとしている。しかしながら、「戦後の終わり」は疑いなくすでに始まっている。それはとどめようのない歴史の流れである。してみれば、問題は、われわれが主体的にそれを終わらせるのか、それとも外からの力によって「強制終了」させられるのか、ということにほかならない。

 日本の戦争責任を問う動きが、これまでも数限りなく繰り返されてきた、と本書にはある。だが、私がそれまでそうした動きに気づかずにいたというのは、けっきょくのところ私もまた「永続敗戦」の構造のなかに取り込まれていたからに他ならない。なぜならそれは、「平和と繁栄」という、耳に心地よい言葉をもたらすものであったからであり、またじっさいに戦後日本は、これまで誰もがその富を共有することができると信じてきた。だが本書は、それがまやかしであることを指摘し、その根拠を論じた。「平和と繁栄」によって得られる富の格差が露骨に見えるようになってきている現代において、その指摘はおおいにうなずけるものが確かにある。本書を読み終えた人は、この長すぎた「戦後の終わり」にさいして、自分が何を意識し、どのような態度でこれからを生きていくべきなのかを、深く考えさせられることになるに違いない。(2015.05.29)

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