【早川書房】
『初秋』

ロバート・P・パーカー著/菊池光訳 



「男は、こうと決めたことは守らなきゃならねえんだ」

 今、この時代に、この台詞を自信をもって言える人間が、はたしてどのくらいいるだろうか。そのときの都合によって自分の意見をころころと変える者、約束を破って平然としている者、自分勝手で他人のことを思いやろうとしない者――本来、人間として恥ずべき行為であるはずのこれらの事柄が、なかばあたり前のようにのさばっている背景には、私たち個人が自分自身に対して誇りをもつことがひどく難しくなっている、という現状がある。

 では、誇りとは何だろうか。それは、自分が自分でありつづけるために、戦うことを恐れないことに他ならない。何が正しくて、何が間違っているのか、他の誰でもない、自分自身で判断し、結論づけ、そして結論づけたことに対して責任を持つ――たとえ、それが一般的な考えや世間の常識から外れているようなことであったとしても、あくまで自分が決めたルールを守りつづけようとする者にこそ、上の台詞はふさわしいと言える。確かな自分などどこにもない、変わらないものなど何もない、とうそぶく者がいる。だが、彼らのうちの誰かひとりでもいい、自分がこうありたい、こうあるべきだと決意し、そのために戦ったことのある者がいるのだろうか。

 世間一般では、彼らのような人間のことを「強情っぱり」と言い、「ばか」と言うらしい。実際、本書『初秋』に登場する私立探偵のスペンサーは、じつにいろいろな場面で「ばか」と呼ばれている。恋人のスーザンにも言われているし、相棒のホークにいたっては「お前は大ばか者だ」とまで言われている。だが、ここで彼らが使っている「ばか」という言葉には、けっして「愚かしい」という意味は含まれていない。それは、やると言ったら必ずやる、例外はただのひとつもなくやり遂げるというスペンサーに対する信頼の情を込めた文句なのだ。そして、当のスペンサーは「おれは非常に強情なんだ」と断言するが、これももちろん、「自分はタフだ」という意味の裏返しである。

 気障な言いまわしと冗談が得意で自信家、常に自分の肉体を鍛え上げ、拳銃片手に都会狭しと駆け回る、タフで二枚目な私立探偵――まるで、寺沢武一の漫画『コブラ』に出て来そうな男、それがスペンサーという男だ。そんな彼のところに、ひとりの女性がやってくる。パティ・ジャコミンと名乗ったその女性の依頼は、離婚した夫が連れ去っていった息子を連れ戻してくること。もちろん、スペンサーにとってはなんてことのない依頼で、いともあっさりと息子のポールの居場所を突き止め、取り戻すことに成功するが、そのポールという少年の、長年両親に放っておかれたがゆえの底意地の悪さ、そしてその奥にある、すべてのことに対する無関心――すっかり心を閉ざしてしまった少年の姿に愕然とする。パティも、その元夫であるメルもまた、自分自身のことしか頭になく、たんに相手への嫌がらせのためにポールを取り合っていたという、胸くそ悪くなるような実情を理解したスペンサーは、あてにならない両親から早く独立し、自分の力で生きていけるよう、ポールを鍛えなおす決意をする。

 本書の読みどころは、何といっても主人公であるスペンサーの、その圧倒的な存在感にあると言っても過言ではない。今の時代においてはもはや化石とも言えるタフガイを演じる彼は、強情であるうえに相当のおせっかいやきでもあるようだ。本来ならポールを取り返し、報酬を受け取って仕事は終わり、となるところなのだが、さすがはスペンサーと言うべきなのだろう、どこか犯罪の匂いを漂わせるメルの仕返しを恐れるパティの頼みを受けて住み込みで護衛をし、男がいないと生きていけないパティの誘惑をなだめすかし、そして自分に何の価値があるのかわったくわからないポールにボクシングやジョギング、さらには家の建て方まで教え込み、あげくのはてに、ポールを連れ戻しに来たパティを追い返してしまうという、まさに傍若無人な振る舞いを見せる。ときに、平気で他人のオフィスに上がりこんで書類を盗み出し、ときに人を脅して無理やり情報を聞き出すという、かなり乱暴なイメージを漂わせるスペンサーであるが、彼がただの乱暴者で終わらないのは、彼がたんに金のためではなく、あくまで自分の誇りのためにやるべきことをやっている、という自負があるからに他ならない。
 そう、彼は自分の誇りのために、ポールを両親から離すことを選んだ。そしてそれがけっして間違ったことではないと、私たちもまた理解しているのだ。

「彼よりはるかに極端な場合を除くと、それは世間一般の考え方じゃないわ」
「一般的な考えが正しいかもしれん、福祉的青少年指導−里親システムの途を選ぶのであれば」
「しかし、あなたといっしょの場合はそうじゃない?」
「おれといっしょにいる場合は、世間の常識は通用しない」

 男らしさ、女らしさ――これらの言葉の裏にあるのは、個人の意志を無視した古臭い男尊女卑の思想である。そういう意味から言えば、本書に書かれているのは古臭い「男らしさ」の物語ということになるのだろう。だが、今の日本という国を、そしてそこで生活している日本人をまのあたりにしたとき、男らしさ、女らしさと言う以前に、私たちは一個の人間として、何か大切なものを忘れてしまっているように思えるのは、はたして私だけだろうか。無気力で、テレビ以外に関心を示すこともなく、自分ひとりでは何もできないポールの姿は、奇しくも福井春敏の『Twelve Y.O.』に描かれている日本の姿に非常によく似ている。「世間の常識」など一顧だにせず、自分の進むべき道をひたすら進みつづけるスペンサーの姿は、一面ではたしかに社会秩序を乱しかねない無法者であるかもしれない。だが、少なくとも私たちは知っている。表面上では善人を装いながら、その裏で法律を盾に平気な顔で悪事をはたらく者たちよりも、自分の名誉のためなら社会そのものを敵に回すことさえ厭わない、強い精神を持って生きつづける者たちのほうが、何倍も格好良いということを。そして、私立探偵のスペンサーが間違いなく、その格好良い人物のひとりに数えられるということも。

 父親も母親もまったくあてにならない。味方になってくれそうな人もいない。そう、十五歳のポールがこれから世の中で自分らしく生きていくためには、否応なく大人にならなくてはならなかった。それが、たとえポール自身のためであったとしても、厳しい決断であることに変わりはない。そんな彼を両親から引き剥がし、大人として鍛えなおすのは、誰よりも自立し、タフな心をもったスペンサーこそがふさわしいと言える。子供は両親のもとにいるのが一番幸せなのだ、という世間の常識を軽々と乗り越えていける、彼こそが。

 誰よりも自分に厳しく、また誰よりも他人にやさしい、ハードボイルドの象徴とも言えるスペンサーは、今日もまた自分の名誉のために戦いつづけるのだろう。(2000.10.16)

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