【幻冬舎】
『童話物語』

向山貴彦著/宮山香里絵 



 あなたはこれまでの人生において、どのくらいとり返しのつかないことをしてしまったか、覚えているだろうか。なくしてしまった信頼関係、壊れてしまった大切なもの、失ってしまった友情――壊すのは簡単だが作るのは難しい、という言葉どおり、自分ではそんなつもりはないのに、ちょっとしたすれちがいや勘違い、どうでもいいようなプライドといったようなものは、いとも簡単にとり返しのつかないことを引き起こし、そして、一度とり返しのつかないことが起きてしまうと、それを元に戻すことは恐ろしく困難な作業となる。たとえ、多大な努力の結果、以前のような関係をとり戻すことができたと思っても、それはあくまで築きなおした関係であって、けっして以前とまったく同じ関係であるとは言い難い。そういう意味で、とり返しのつかないことは文字どおり、二度と元に戻らないことだと言うことができる。

 変化することが失うことと考えるのであれば、それは悲しいことだ。だが同時に、変化することは得ること、成し遂げること、成長することでもある。もし、この世が永遠に何も変わらないような世界だったなら、それこそルージャンの言うように「退屈で死んじまう」世界でしかないだろうし、本書『童話物語』で語られる一連の物語は、そもそもはじまることさえなかっただろう。

 本書はいわゆる「少年少女の成長物語」の正統の流れを、そのまま受け継いで生まれた作品である、と言うことができるだろう。今でない時、ここでない場所――クローシャ大陸の南にある小さな村落に住むみなしごのペチカは、明日の食べ物さえままならない貧困のどん底の中で、たったひとつ、小さい頃の母との暖かい思い出だけを心の拠り所に、世の中のあらゆる悪意に打ちのめされながら生きていかなくてはならなかった。ぬくもりのない町はずれの小屋、どうすることもできない圧倒的な空腹感、彼女の雇い主である教会の守頭の絶対的な暴力と、同世代の子供たちの執拗ないじめ――これ以上はないという不幸を前にして、それでも強く生きようとするペチカは、ある日釣り鐘塔のてっぺんで、ひとりの妖精と出会うことになる。そして、これが大きなお話のはじまりとなる。

 クローシャ大陸の伝説によれば、人間に疫病をもたらし、世界を滅ぼす「妖精の日」を引き起こすといわれている妖精の存在――フィツと名乗ったその光の妖精に、最初は恐怖を、つづいて敵意をむきだしにして、ペチカは妖精を追い払おうとするが、最初に出会った人間としか言葉の通じないフィツは、彼女のもとから離れようとしない。そのうちに、妖精といっしょにいるところを見られたペチカは住む家を失い、否応なく町から離れなければならなくなるのだが、そんなあてのない旅の間、ペチカとフィツはしょっちゅうケンカしながらも、しかしお互いになんらかの絆の存在を感じ、少しずつ心を許しあうような存在へと変わってゆく――と文章にすると簡単なように思えるが、そもそも何度も人間に裏切られ、誰ひとり頼ることのできないような環境で、それでも自分の心を守るために強く生きようとするあまり、ときには乱暴な行為に走ったり、あらゆる人間を悪い奴らと決めてかかるようなところがどうしても抜けないペチカにとって、誰かを信用する、優しい心を持つ、というのは並大抵のことではない。心優しい目の見えない旅のおばあさんを「人買い」だと決めつけたり、勝手にお金を盗んで逃げたり、一度など、フィツとの大喧嘩のあげく、本気でフィツを殺そうとさえしたことのあるペチカのすさんだ心が、物語のなかでいったいどのような変化をとげていくのか――本書はまさに、その一点を表現するためだけに生まれた物語だと言っても過言ではあるまい。

 そしてもうひとつ注目すべきなのが、町のいじめっことともにペチカを苛めてきたルージャンの存在だ。もともとペチカと仲良くしたかったはずのルージャンは、しかしちょっとしたすれ違いのためにペチカを苛める側にまわってしまっていた自分にひどく後悔し、ペチカに一言謝りたい、という一心でペチカの後を追って家を出るのである。物語の後半は、おもに彼と妖精フィツがコンビを組み、ペチカの行方を追う、という形になるのだが、彼は親元を離れ、ひとりで生きていかなくてはならなくなって、はじめてペチカの境遇を心底理解し、自分たちがいかに罪深いことをしていたかをあらためて思い知ることになる。はたして、ルージャンたちはペチカと再会することができるのか、そして、ルージャンとペチカの間に横たわる「とり返しのつかないこと」は、どのような決着を迎えるのか、というのも、本書の大きな読みどころであると言えよう。

 天まで届くと言われ、内部が複雑な迷路と化した、パーパスの巨大な「天界の塔」、地面や空中を網の目のように水路が走り、巨大な水門で水量を管理しているアロロプール、時計台を中心に、ドーナツのような浮き島をつくり、その上に人々が暮らしているアルテミファ、そして、どんな忘れ物や落し物でも預かっているという、世界の果てにある伝説の「忘れ物預かり所」――いかにもファンタジーらしい魅力的な要素に満ち満ちた世界でありながら、時間や距離、通貨の概念、気候から歴史、人々の生活習慣にいたるまでのきめこまかな設定と、何より魅力的な登場人物たちによって、読者はきっと、架空の世界の物語でありながら、そこで確かに人々が生きて暮らしている、という実感とともに本書を読み進めていくことができるに違いない。さらには、ペチカを逆恨みして、ひたすら復讐のために彼女の行方を探す守頭や、邪悪な炎の妖精ヴォー、そして人間の負の感情を食らって成長するという炎水晶など、ペチカたちの前に立ちはだかる敵の存在も忘れてはいけない。典型的な「成長物語」であり、「世界を救う話」という、もう使い古されたパターンの物語であるにもかかわらず、何より人の心の変化、そして世界の不思議というものにもう一度光を与えた本書は、それゆえにこれまでにない魅力を備えた物語として完成することになった。

 おばあちゃんのオムレツはおいしかった。
 夕焼けの空も、星いっぱいの夜空もきれいだった。ロバのテディーの耳の間は温かかったし、ルージャンの摘んでくれたポムルの実は甘かった。雪は不思議だった。人は不思議だった。この世界は何もかもが不思議だった。

 妖精フィツのこのつぶやきは、本書の架空の世界のことを言っていると同時に、私たちが住んでいるこの現実の世界のことも言っている。そして、今の忙しさ、現実の厳しさにとらわれるあまり、心の余裕をなくしてどんどん自分勝手な性格に陥っていく私たちの姿は、そのまま冒頭のペチカの、ルージャンの姿と重なるものがある。ファンタジーなどというと、とかく子供の読み物として倦厭されがちであるが、私たちが現代かかえているさまざまな心の悩み、心の病気をもっとも率直に表現し、私たちに気づかせてくれるのは、本書のようなファンタジー小説なのではないだろうか、という気がしてならない。

 あなたが引き起こしてしまった「取り返しのつかない」こと――それはもしかしたら、あなた自身がもうどうでもいい、と放棄してしまっただけのことで、あなたにペチカの、ルージャンの、フィツの勇気が少しでもあるなら、とり返しがつくことなのではないだろうか。たとえ、それがけっして以前のような形にならないとしても、前以上の形に発展させてしまえばいいだけの話ではないだろうか。そんな勇気を与えてくれる本書は、第一級の傑作小説であると私は断言する。(2000.03.11)

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