【原書房】
『道具屋殺人事件』
−神田紅梅亭寄席物帳−

愛川晶著 

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 噺家という商売はけっきょくのところ、高座に来てくれるお客を笑わせてナンボのものであることは言わずもがなであるが、よくよく考えてみると、彼らが語る古典落語の内容は、けっして面白おかしいものばかりではない。たとえば有名どころの「寿限無」は、長寿を願ってつけた子どもの名前があまりに長すぎることが災いして、けっきょくその子どもは溺れ死んでしまうという話で、なんとも救われないものがあるし、なけなしのお金を騙し取られたり、詐欺まがいの目に遭ったりするようなものも、意外と多かったりする。話の内容だけをとらえていくと、とても人を笑わせられるようなものではないのだ。

 にもかかわらず、噺家がそうした落語を語って、なおかつ客を沸かせることができるのは、ひとえに彼らの話術をはじめとして、客もふくめた場全体をつかんでしまうという、まさに噺家の職人芸としか言いようのない才ゆえのものだ。そう考えると、噺家というのはすごいものだと思わずにはいられないし、逆に、ただたんに古典落語を暗記し、それを語るというだけでは噺家とは呼べないのだろうとも思う。

 噺家が探偵役となって事件を解決するという小説というと、たとえば北村薫の『空飛ぶ馬』をはじめとする「円紫師匠とわたし」シリーズや、田中啓文の『ハナシがちがう! 笑酔亭梅寿謎解噺』などいくつか浮かんでくるが、今回紹介する本書『道具屋殺人事件−神田紅梅亭寄席物帳−』ほど、落語にまつわるエピソードをミステリーのネタとしてうまく当てはめたものは珍しい。それは当然、落語にかんする知識が相当深くなければ思いつかないものであるのだが、それ以上に、本書の著者がなにより落語が好きでたまらないのだろう、という雰囲気が感じられ、だからこそ印象深いオチとなって読者の心に残ることになる。

 本書は表題作をふくむ三つの作品を収めた連作短編集であり、いずれも平田亮子が主体となって物語が進んでいくという形式をとっている。本書における彼女の立場は、噺家の妻。夫である寿笑亭福の助は噺家稼業十一年の二つ目で、落語界での評判は上々ということらしいが、亮子自身については、なにせ結婚してまだ四年目、それ以前は、落語が何人でやるのかすら知らなかったということもあり、落語にかんしてはまだまだ明るくないところがある。

 何かの専門分野をミステリーとして絡めていく場合、その専門分野ならではの謎や伏線を用意することで、その世界に深みをもたらすことになるのだが、あまりにその知識が専門的すぎると、ミステリーのそもそもの醍醐味――探偵が謎を解く過程の醍醐味を読者が共有できなくなるというデメリットがある。そういう意味で、亮子が落語界においてじつに絶妙な立ち位置にいるというのも大きな特長であるが、さらに本書の場合、提示する謎を大きくふたつに切り分けることによって、落語とミステリー双方の面白さを互いに引き立てていくような効果を生み出していると言うことができる。

 ひとつ目の謎は、もちろん落語にかんする謎である。これは大抵、夫の福の助が業界の中で苦しい立場に立たされるというもので、その背景には、彼がもともと寿笑亭ではなく山桜亭の弟子であったこと、その師匠である山桜亭馬春が三年前に脳血栓で倒れ、復帰が絶望視されていること、そして今の師匠である寿笑亭福遊のところでめきめき実力を発揮しており、そのことを快く思っていない兄弟子との確執が生まれている、といったものがある。たとえば表題作の『道具屋殺人事件』では、噺家の技量が大きく問われる、いわゆる「損な」噺である「黄金餅」を勝手にエントリーされ、なんとか一工夫しなければならなくなるし、『らくだのサゲ』においても、「らくだ」という噺の新しいオチを考えるという無理難題を押しつけられる。

 そしてもうひとつの謎が、刑事事件の絡むものだ。それは、高座の最中に出てきた血染めのナイフであったり、福の助の後輩にかけられた殺人容疑であったりと、もしそれが真実であれば落語界に大きな衝撃が走ることは必定のものばかりである。こうしたふたつの大きな問題を前に進退窮まった福の助たちが、前の師匠である山桜亭馬春に助言を仰ぐ、というのが本書のパターンとなっており、そういう意味で山桜亭馬春こそが探偵役のミステリーだと言うことができるのだが、上述したように彼は脳血栓の後遺症で以前のように饒舌な喋りができない。というよりも、そんな喋りを他人に聞かれたくないといういかにも江戸っ子気質な理由で、筆談や文字盤による片言の助言しか行なわない。それは、ある意味で「読者への挑戦状」としての役割を果たしていると言うこともできるのだが、もちろんそれだけが理由ではない。

 三題噺は、現在でも時折行なわれているが、事前に客から三つのお題をもらい、それらがすべて登場する噺を考え、最後にサゲをつけて演じるのだ。――(中略)――つまり馬春師匠は、自分の弟子に、三つのお題をもとに、事件の真相を組み立ててみろ、と言っているのだ。

 これまでの書評をつうじて何度か繰り返してきたことでもあるが、探偵というのは最終的に、事件の真相を解明する宿命にある者だ。だが、本書の馬春師匠が他の探偵と根本的に異なっているのは、彼がまさに誰かの「師匠」であるという点であり、それは同時に、弟子の成長のために尽力するということを意味している。だからこそ、馬春は謎を解明するという、本来であれば探偵がなすべき仕事を弟子に譲るのだ。そして、弟子たる福の助は噺家であり、そうである以上、落語という形でふたつの謎に対して答えを見出していく。いっけんすると、何の関係もなさそうなふたつの謎――だが、それが物語終盤になると見事に結びつき、しかもそのことが福の助の噺家としての成長を助けている、という点で、本書は他のミステリーとはあきらかに一線を画している。

 馬春師匠は、噺家としてこれからの活躍をますます期待されていた、まさにその時期に病に倒れ、隠居生活を余儀なくされている。それは彼本人にしてみれば、かなり深刻な問題であることは間違いないのだが、少なくとも本書のなかにおいて、そうした状況に対する鬱屈した雰囲気はない。さまざまな落語の話が登場し、また落語界のいろいろなしきたりや隠語の数々など、落語の好きな人にはたまらない作品であるが、何より「暗い話をわざと茶化す」ことが落語界のルールだという記述を読んだとき、少なくともけっして明るい話ばかりではない落語を、それでもなお面白おかしく話して聞かせるという噺家の気骨を見たような気がしたものだ。江戸っ子の「粋」の真髄とはどういうものなのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2010.03.10)

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