【早川書房】
『ドゥームズデイ・ブック』

コニー・ウィリス著/大森望訳 



 過去への時間跳躍と、そこに生じるタイムパラドックスとの関係が、多分に運命的なものであるのは、たとえば映画「ターミネーター」のラストを考えてみればよくわかることと思う。未来で人類の救世主となる人物の母親を守るため、未来から時間を越えてやってきた戦士は、その女性と交わることで、人類の救世主の種をその女性の体に宿すという役割をはたすことになる。つまり、未来においてその戦士が過去に時間跳躍することは、個人の意思とは無関係に、そのこと自体がすでに壮大な歴史の一部として組み込まれた必然だったということなのだ。

 佐藤正午の『Y』もまた、過去への時間跳躍をあつかった作品であるが、そこでおこなわれた過去の改竄はなんてことのないものであったにもかかわらず、何人かの人間のその後の人生に大きな影響をおよぼすことになった。おそらく、未来の人間が過去へと時間跳躍することは、そのこと自体が歴史になんらかの影響をあたえずにはいられない行為であり、またその影響に対して、時間はタイムパラドックスを生じさせないよう、あたかも神のごとく歴史を修正したり、パラレルワールドを発生させたりするのだと考えることができそうである。

 本書『ドゥームズデイ・ブック』という作品について語るべきことは数多くあるが、こと上記のような事象を念頭においたうえで本書をとらえたとき、キヴリンの身におこった一連の試練は、時間という超越的概念が引き起こした一種の運命的作用だったのではないか、と言うことができるのだ。そしてそう思わせるだけの見事な物語構成が、本書にはたしかに存在する。

 物語の舞台となる21世紀のオックスフォード大学では、科学技術の力によって歴史研究家たちが自身の専門とする時代へ時間跳躍することが、あたり前の事実として認識されていた。まだ「横断歩道をひとりでわたることもできない年齢に見え」る中世史科の女子学生キヴリンは、危険度ランクのきわめて高い14世紀のイギリスへのタイムトラベルを行なうことになっていた。そこには学部長の留守中、代理を任させていた中世史科教授ギルクリストの野心が絡んでいたが、それ以上に一人前の歴史家になりたいというキヴリンの強い希望もあったのだ。彼女の「非公認」の指導教授となったダンワージーは、ただでさえ瘰癧とペストが蔓延し、魔女狩りがさかんだった暗黒時代へキヴリンを送り出すことには反対だった。そのうえ、ギルクリストのタイムトラベルに関する認識は、あまりにもずさんでお粗末なものであることにも気づいていた……。

 結果から先に言うと、時間跳躍は成功する。だが、キヴリンが無事目的地にたどり着いたのか、時間的ズレはどの程度だったのかを確認する前に、彼女の時間跳躍を担当した技術者は原因不明のウィルスに感染して倒れこんでしまう。クリスマス休暇の最中であることにくわえ、未知の伝染病への対策として大学一帯が隔離地域として指定されてしまい、ダンワージーは代わりの技術者を呼ぶこともままならない状態に陥ってしまう。いっぽうのキヴリンもまた、到着と同時に病に倒れてしまい、前後不覚の状態である村に運び込まれたため、元の世界に戻るためのランデヴーポイントを特定できない状態にあった。そのうえ、時間跳躍以前にさんざん練習してきた中世英語は相手にまったく通じない。そして、彼女に与えられた時間は、わずか2週間。

 はたして、キヴリンは無事に帰還することができるのか。倒れた技術者がつぶやいていた「なにかがおかしい」という言葉は、何を意味しているのか。そしてダンワージーは、さまざまな困難を乗り越えて、キヴリンの救出に向かうことができるのか? 21世紀と14世紀のふたつの時代を核として展開していく本書は、前半こそなかなか物語が進展を見せず、冗長な感じが否めないのだが、そのぶん後半の怒涛の展開には目を見張るものがあるのは間違いない。そして本書はエンターテイメント小説としての要素を数多く含んだ作品でもある。キヴリンが送り出された14世紀のきわめてリアルな――自然や生活様式はもちろんのこと、そこに生きる人たちの暮しぶりも含めて――描写は歴史小説を思わせるし、いっぽうのダンワージーが、トイレットペーパーの不足や親バカ丸だしの学生の母親に頭を悩ませたりする様子は、まるでコメディ小説であるかのようだ。またキヴリンが学生としてまだ頭でっかちである様子と、タイムトラベルによる壮絶な体験を照らし合わせれば、そこには成長小説の要素があり、またダンワージーとキヴリン、あるいは14世紀で出会うローシュ神父とキヴリンという関係性に注目するなら、一種の恋愛小説だとさえ言えよう。だが、本書が時間跳躍というSFとしての要素を取り込んでいる以上、本書を語るのに時間跳躍そのものを無視するわけにはいくまい。

 本書のタイムトラベルに関する知識はネット理論と呼ばれているが、それは一言で要約するなら、「タイムパラドックスが生じない過去への時間跳躍」ということになるだろう。つまり、時間跳躍の先に、歴史を大きく改竄する要素――たとえばヒトラーを暗殺したり溺れかけた子どもを救うといった重大な瞬間があった場合、ネット理論はその瞬間をうまく避けて時間を先へとズラしていく、というものである。ダンワージーがキヴリンの時間跳躍のさい、どの程度の時間のズレが起きたのかをしきりに気にしていたのは、こうした事情があるわけだが、上述したように、未来の人間が過去へと跳躍すること自体、なんらかの歴史の改竄につながることを避けることはできない。

 本書の結果だけをとらえるなら、キヴリンの時間跳躍は歴史の改竄にはいたらなかったと言うことができるだろう。だが、もしそれでもなおキヴリンが過去の世界に身を置いたという歴史的事実が覆せないとするなら、壮大な歴史の流れにおいて、キヴリンが、まさにその時代に時間跳躍するための必然性があったと考えるのが妥当である。それは、その時代に対する未来の人間の、誤った認識をただすこと――その時代にいったい何があったのか、歴史家として、そしてひとりの人間としてきちんと見つめることであり、それは何より歴史そのものが望んだことではないかと思えてくるのだ。

 ここに来ることを望んだのはわたしです。もしわたしが来ていなければ、ここの人たちにはなんの助けもなかったし、彼らがどんなにおびえ、どんなに勇敢で、どんなにかけがえのない人たちだったかを知る者はだれもいなかったでしょう。

 時間跳躍とタイムパラドックスの関係が一種の運命であると考えたとき、キヴリンにとって、そして彼女と出会うことになる過去の人たちにとって、その運命がどのような作用をもたらすことになるのか、そしてひとりの歴史家として、事実をありのままに記録することがどのような意味をもつのか――あるいはそうした認識は大袈裟すぎるのかもしれないが、本書を読み終えたとき、歴史というものがまぎれもなく人間の生と死の積み重ねであること、そして人間たちが、さまざまな困難を乗り越えて生き抜いた軌跡こそが真の歴史であることを、私たちは大きな感動とともに思い知ることになるのだ。(2003.10.27)

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