【筑摩書房】
『どこかにいってしまったものたち』

クラフト・エヴィング商會著 

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 たとえば、私がこのサイト上で公開している数々の書評は、間違いなく現物の本をじっさいに手にとり、最後まで読みとおし、そうしたうえで書きあげたられたものであるが、サイト公開からそろそろ6年目になろうとしているこの時点において、書評を書いた当時はまだ書店にあったはずの本が、今ではもう手に入らなくなってしまった――書店にはもちろんのこと、出版社にもすでに在庫がなく、しかも重版などの予定がない、あるいは絶版扱いになってしまった本というのが、すでに何点か生じているようである。

 もちろん、たかだか数年程度の時間であれば、たとえ出版業界の流通経路からその姿が消えてしまったものであったとしても、古本屋などにはまだ残っている可能性はあるし、あるいは図書館が蔵書している可能性もある。もしかしたら、何かのきっかけで出版社が復刊してくれる可能性だって残されているかもしれない。だが、時間が経過すればするほど、たとえばその出版社が倒産してしまったり、原稿が紛失してしまったりする可能性のほうが大きくなってくるのも事実である。もし極端な話、このサイトが今後50年つづいたと考えたとき、サイト公開当初に書かれた書評の本が、すでにどこにも存在しなくなっている可能性は皆無ではない、ということである。そのとき、その本がどのような内容のものであるかを判断するのは、私の書いた書評だけであり、人々は必然的に、私の書評からその本を想像するしかない、ということになるのだ。

 本書『どこかにいってしまったものたち』は、創業以来100年つづいているという設定の、架空の雑貨屋「クラフト・エヴィング商會」がとりあつかっている「不思議の品」のなかでも、文字どおり商品本体が紛失してしまい、今ではもうその形状や効果のほどが確認できない商品の数々を紹介している本である。商品がない、とはいっても、たとえばパッケージや解説書、宣伝チラシといった、その存在を証明する付属品や備品の一部はかろうじて残っているため、本書ではそれらのものから、対象となる商品についていろいろと想像をめぐらせる、という形をとっている。そういう意味で本書は、同商會から刊行されている『ないもの、あります』の商品――よく耳にはするが、じっさいには見たことのないものを、あえて実体化し商品にしてしまったというコンセプトとは、まったく逆の発想によって生まれたものであり、また本書が「クラフト・エヴィング商會」という名で刊行された最初の本であることを考えたとき、本書のコンセプトこそがすべての原点だということができるだろう。

 もしかするとこれらの不在品も、現物を確認してしまったら「なあんだ」というようなものであるのかもしれません。しかし、現物が不在であるがゆえに、これらの「不思議」は決して葬られることがありません。

 光ではなく闇を照らし出す「アストロ燈」、あらゆるものを結晶化させる「万物結晶器」、地球の重力の強弱を測定することができる「硝子蝙蝠」、かつてその場に存在していた物体を映し出すことができる「時間幻燈機」――そこにあるのは、もし実在していたならとんでもない大発明であるものばかりであることは確かであるが、同時にあまりにも非科学的すぎて、かえって胡散臭い雰囲気を漂わせる代物でもある。しかしながら、その「胡散臭さ」は、けっして人を不快にさせるたぐいのものではなく、むしろちょっとした懐かしさ――子どもの頃にはたしかに持ち合わせていた、不思議なものに対する興味と好奇心をかきたてられる、そんな胡散臭さである。

 もしかしたらご存知の方もいらっしゃるかもしれないが、かつて、お祭の夜店などでは「レントゲン玩具」なるものが売られていたという。見た目はただの筒状のスコープにすぎないのだが、そのスコープごしに鉛筆を見てみると、その鉛筆の芯が透けて見える、また自分の手をかざしてみれば、その骨まで透けるという、なんとも不思議な商品だったのだが、好奇心に駆られて分解してみるとなんてことはない、ただ鳥の羽がスコープの穴に貼り付けてあるだけの代物にすぎなかった。この「レントゲン玩具」がかつて漂わせていた、ある種のレトロな胡散臭さと似たような雰囲気を、本書の「不在品」は持ち合わせている。ただ、「レントゲン玩具」とは異なり、その現物を知っている人はもはやどこにも存在せず、ゆえにその種明かしも永遠に謎のまま、という点こそが、それら「不在品」の強みである。そういう意味では、まず存在しない、「不在」であることが前提となって、はじめてその存在意義が生まれてくるという、なんとも因果なその性質こそが、本書の紹介する「不在品」の本質なのである。

 それゆえに、なかには夜専用のサングラスである「ムーングラス」とか、起動させるのに、じつに85種類ものネジを一定の手順で巻く必要のある「水蜜桃調査猿」、14台の蓄音機と、心を一つにすることができる熟練の14人の人間がいてはじめて意味を成す「立体十四音響装置」、解説書だけで6000ページを超えるという「夜間自動記録式電氣箱」など、たとえ実在したとしてもまるで意味のない商品もけっこう多い。だが、本書の商品がなにより「不在」であることが前提であるとするなら、こうした無意味な商品も、それなりの意味を帯びることを許される。それは、私たちが日々の忙しさにかこつけて忘れがちなこと――目に見えるものだけがすべてではないということ、そして目には見えない何かに思いを馳せるという行為がもつ、甘美な時間なのである。

 めまぐるしく移り変わっていく今の世の中で、いろいろなものが流行しては、知らないうちにその姿を消していく。それは、その社会からすれば役に立たないもの、その役割を終えたもの、つまりまったく意味のないものであったのかもしれない。だが、そうしたいっけん無意味な代物のなかには、本書で紹介されているような、無意味だからこそ素敵なものもたくさんあったはずだ。私たちが本書に接することで見出すことになる、それぞれの「どこかへいってしまったものたち」――それは、あるいはこうしたジョークグッズを愛で、楽しむことができる心のゆとりなのかもしれない。(2004.08.06)

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