【集英社】
『風景を見る犬』

樋口有介著 



 自分の頭のなかでイメージしていることと現実とのギャップ、というのは、誰もが多かれ少なかれ経験していく事柄のひとつではあるが、私にとっての沖縄という土地が、まさにそのひとつとなっている。沖縄と言えば、日本にある南国の島で、開放感、健康的、おだやかな雰囲気、リゾート地といったイメージを漠然と思い浮かべていたのだが、じっさいに沖縄を旅行したときにまず思い知ったのは、その商魂のたくましさという点だった。当時の私は貧乏学生で、電車のない沖縄での交通手段としてバスを利用していたのだが、バス停でバスを待っているとかならずと言っていいほど、バスではなくタクシーが停まり、どこへ行くのか訊いてくるのだ。タクシーといえば、金のなさそうな客は手を挙げても平気で無視するというイメージがあっただけに、呼んでもいないのに勝手に停まってくる沖縄のタクシーは、なかなかの衝撃だったことを今も覚えている。

 太平洋戦争で大きな悲劇に見舞われ、戦後は一時期日本の領土ではなくなり、復帰してからもアメリカ軍基地などの問題をかかえている沖縄、かつて琉球王国だった頃から、他国との関係において緊張を強いられてきた沖縄、ユタをはじめとする土着の信仰や文化が息づいている沖縄――私たちがイメージする沖縄はじつに多岐にわたるし、目取真俊や池上永一など、沖縄を舞台とする小説を書く作家は多いが、いずれの作品においても同じ沖縄でありながら、まったく異なる世界の物語であるかのように思えることもある。それはたんに、書き手の性質によるものかもしれないし、時代が異なれば雰囲気も当然のことながら変わってくる、というのもあるのだろうが、それ以上に、捉え方しだいでさまざまな一面を見せるという点こそが、沖縄という土地柄の本質なのではないか、とふと思うことがある。

 今回紹介する本書『風景を見る犬』は、数ある沖縄小説のなかでも、とくに上述のような本質をもっとも色濃く漂わせる作品だと言うことができる。そしてそれを象徴する単語として登場するのが、「栄町」だ。なにしろ冒頭の一文からして「栄町通りという道はあっても、栄町という町はない」である。四百番台もの番地がつけられた、町なのか道なのかよくわからないような通称をもつ場所が物語の舞台であり、一人称の語り手である高校生、呉屋香太郎は代々続く売春宿の息子であるが、その売春宿も名目上はスナックであり、飲食店の許可もあるから酒だけでなくちょっとした料理も出せるという店となっている。こうした、何かひとつのことをきっちり決めるというよりは、いろいろな要素をチャンプルー(ごたまぜ)にして、どうにでも受けとれるような体裁が、物語の冒頭からすでにできあがっている。

 そしてこの、良くも悪くも曖昧で適当な沖縄気質は、何も場所だけではない。たとえば、香太郎の母親は売春宿の経営者にしてスナックのママであり、また「三線呉屋流」の家元という肩書きをもつ女性であったりするのだが、登場人物のほとんどが、そうしたどっちつかずの曖昧さをかかえており、そうしたものがいかにして露呈していき、そのことで物語がどのように転がっていくのかが本書の大きな読みどころとなっている。そういう意味では、本書のなかで起こる殺人事件ですら、その読みどころを強調するための要素のひとつでしかないとさえ言える。なぜならこの事件がきっかけとなって、香太郎は自分の周囲にいる人たちの別の一面や、思わぬ人との関係性を次々と突きつけられていくことになるからだ。さらに言うなら、殺人事件そのものも、当初は事件ではなく事故死として扱われてしまったというおまけもついている。

 殺人事件が発生したからには犯人が存在し、そうなるにいたった真相というものがある。物語的には当然のことながら、そうした謎の解明というベクトルを進むことになるのだが、語り手である香太郎自身はかならずしも探偵役を担っているわけではなく、むしろ一介の高校生でしかないという点が強調されている。彼自身も探偵として動く気はあまりなく、むしろ高校生らしく進路について考えたり、幼馴染との関係をどう修復するかに悩んだり、メキシコ料理屋でのアルバイトに精を出したりするシーンが圧倒的に多い。

 では、誰が事件の真相を突き止めるのかという話になるのだが、ここでも中心になるのはやはり「栄町」という単語だ。具体的には香太郎が勝手に「栄町探偵団」と名づけている集団であるが、具体的には、「じつは」県警の刑事であるお店の常連客の反町や、「じつは」隠密めいた聞き込みが得意な母親だったりする。もっとも母親のほうは、殺人事件によって営業を自粛せざるを得なくなり、なかば暇だから、なかば商売を再開したいがために事件解決に協力しているふしもあるのだが、その過程で出てくるのは、嘘なのか本当なのかよくわからない「じつは」という言葉が頭につく話ばかりであり、香太郎はなかばそうした話に振り回される形になる。そしてこうした部分もまた、沖縄気質のひとつだったりする。

 ヤクザと警察官が親戚だったり従兄弟同士だったり、みんながみんな、だれかの親戚かその知り合いかまたその親戚。沖縄に興信所や探偵事務所がない理由は、そんなものがなくても――(中略)――個人の秘密や行状を隠せないから。警察にしてもこの沖縄ネットワークに食い込まないかぎり、捜査なんか成り立たないか。

 怠け者のくせに妙に見栄っ張り、日和見的で利己的な沖縄マインド全開の本書は、殺人事件を扱いながらもその捜査が中心になって動くことはない。そして香太郎にしても、考えるだけは考えるが、そこに行動がなかなかともなわない。警察のほうも、事件が本土がらみの様相を見せると、とたんに「本土の案件」として丸投げしようとするくらいの適当さだったりするのだが、それでも悩みとまったく無縁というわけではない。つらいことや隠したいこと、忘れたいようなことのある人が、なぜか集まってくる沖縄――そこでは、ガツガツと謎を解き明かすという行為はかえって無粋に見えてくるから不思議である。

 はたして「栄町探偵団」がどのようにして事件の真相に迫っていくのかは、ぜひ本書を読んでたしかめてほしいところであるが、ひとつだけ言えるのは、ハードボイルドという要素は、意想外に沖縄の風土とマッチする、ということである。あるいは、やせ我慢の好きなロマンチストであるハードボイルド気質にとって、沖縄の曖昧さ、白でも黒でもどちらでもかまわないという精神は、一種の癒しであり、また墓場でもあるのかもしれない。なにせ沖縄は、私立探偵がいない代わりに、このうえなく老成しているように見えながら、それでもやはり一介の高校生に過ぎない「野良犬」がいるような土地なのだから。(2014.01.03)

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