【柏書房】
『ふちなし帽』

トーマス・ベルンハルト著/西川賢一訳 



 人間が頭の中でどんなことを考えているのか、ということについて、その人の言葉遣いやちょっとした態度によってある程度は類推することができるものの、そんなふうに体の外にもれ出てしまう要素というのは、頭の中でぐるぐるとめぐっている思考の、ほんの氷山の一角でしかない。そして人間の思考というものはけっして同一のものはなく、それぞれがしかるべき正当性を主張する自身の考えというものをもっている。その一部が体の外に出てきたとき、それがその人間の「個性」として他人に認識されることになる。

 井上剛の『マーブル騒動記』は、牛が人間並みの知能を獲得するという小説だが、牛たちは個性という概念をもつことなく知能だけを得てしまったがゆえに、自分と他人という差別化がなく、どんな牛もかならず同じような思考をし、同じような結論に達する、ということだった。それに対して人間には自我があり、さらには自分以外の動物に対しても、自身と同じような個性をもたせ、差別化をしようとする。これはおそらく人間という種だけがもつ特別な思考だと思うのだが、この個性というものが、ときに相互のコミュニケーションのさまたげとなってしまうこと、ようするに「あの人はよくわからない」という状態を生み出してしまうというのも事実である。たとえば、幼い子どもばかりを狙った連続猟奇殺人犯に、その動機を訊く機会があったとして、それが大半の人にとってはまったく論理性のない、わけのわからないものであったとしても、彼自身の頭の中では、彼なりにちゃんとつじつまの合う、確固とした論理性が確立されていることも、まったくないとは言えない、ということである。

 それゆえに、ひとりの人間がもつ個性、その思考の源にあるものを理解しようとするのであれば、それこそ町田康の『告白』や山田宗樹の『嫌われ松子の一生』のように、当人の過去にまで遡って追体験していく、という方法がとられるのであるが、本書『ふちなし帽』のなかに収められた11の短編は――もちろん、それが短編である、という制限もあるのはたしかだが――むしろ、そのわけのわからない、ちょっと変わった人たちの思考を、何ひとつ加工したり、書き手の意図をくわえたりすることなく、そのままひょいと読者の前に投げ出してみたかのような、そんな作品集となっている。そしてその思考は、かならずしも現実の利害や損得勘定といった論理性が通用するようなものではない。

 たとえば、「ヴィクトル・ハルプナル」は、両足が義足の男が冬の森を一時間で抜けることができるかどうかの賭けをしたあげく、その途中で義足が両方とも折れてしまい、立ち往生しているところをたまたま医者である「私」が通りかかる、という話で、発見されたからよかったものの、もし誰にも見つけられなかったらそのまま凍死していても不思議ではない、危険きわまりない賭けを彼はしていたことになる。しかも、けっきょく賭けには勝つものの、壊れた義足の修理には賭け金の何倍もの費用がかかるわけで、まったく良いことがなかったばかりか、みんなが損ばかりしているのである。

 本書に収められた短編は、いずれもこの話に代表されるような非常識な事柄、あるいは非常識な思考にとらわれるあまり、登場人物のとらえる現実がどんどんねじれていってしまう様子を描いたものばかりである。表題作の「ふちなし帽」などは、道すがらに見つけた落し物のふちなし帽が、どんな職業の人のものかを考えているうちに、それらの職業のいずれでもない自分がふちなし帽をもっているという事実に耐えられなくなり、必死になってその帽子の持ち主を捜してまわるという話であるし、「クルテラー」にいたっては、さまざまな自由を束縛するはずの刑務所で執筆活動を許されたある囚人が、いざ釈放されるという時になって、何をどう思考を飛躍させたのか、刑務所のなかという不自由さこそが、自分にとっての「自由」である、刑務所のなかでしか執筆の自由がないという曲解した結論を導き出してしまう、というものである。

 ごく一部の例外はあるものの、本書の短編は、たいていは第三者的な立場にある一人称の「私」なる人物が、どうにも理解しがたい思考の持ち主である登場人物のおちいっている状況、あるいはその一部分を垣間見る、という形で物語が進行していくことになるが、あくまで「私」という視点で語られるがゆえに、その登場人物の背後に何があるのか、という点については、ともすると極端なまでに情報が不足しており、しかも不足したまま唐突に話が終わってしまう場合が多い。読者にしてみれば、まさに狐につままれた、という感想をいだいてしまうところだが、そもそも私たち自身にしてからが、他人の考えていることについて、けっきょくのところすべてがわかるわけではない、という意味では、非常にリアルな世界――不条理な世界をむき出しのまま描き出しているとも言える。だが、本書を読んでいるときには、まるでその登場人物のおかしな思考のねじれに影響されているかのような文章に、ついつい毒されてしまうのだ。

 そう、一人称の「私」が見ている世界、「私」が接している人物たち――だが、あくまでひとりの人間の視点にすぎないそれが、どこまで客観性をたもっているか、それは誰にもわからないことでもある。もしかしたら、まったく別の視点から物語全体をとらえたとき、もっとも奇妙に見えるのは、他ならぬ「私」自身の思考なのかもしれない、という危うさが、本書の短編集にはあるのだ。

 なかには「インスブルックの商人の息子が犯した罪」や、「喜劇? 悲劇?」のような、人間の死という理不尽さが無防備なまでにさらけ出されていたりする作品も多く、そのことに対して何もできない、あるいはしようとしない状況は悲惨なものですらあるのだが、だからといって特別その死を神聖視したりすることのない、ある意味突き抜けていくような筆致は、悲惨さというよりは、その不条理さ、理不尽さをかえって滑稽なものにさえ思わせてしまうものがある。そして、いみじくも世の中というものは、基本的にはそんなふうにくだらない、馬鹿馬鹿しいもので満ちているのかもしれない、と思わずにはいられなくなるのだ。

 世界はけっして物語のように予定調和で動いているわけではない。混沌として、かならずしも論理的な思考ばかりが優先されるわけではない、ときにわけのわからなくなるような人間の言動――それはあるいは、人間という存在をもっとも確実に、リアルにとらえているものであるのかもしれない。(2005.12.02)

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