【晶文社】
『小さな本の数奇な運命』

アンドレーア・ケルバーケル著/望月紀子訳 



 たとえば、出版社や書店といった出版業界ではたらく人々にとっては、自分たちがつくりあげたり仕入れたりした本ができるだけ多く売れるのが幸せなことだと言える。これは、出版社や書店が株式会社であり、利益追求を第一とする組織である以上、他の業界の企業と同じ原則がここでも成り立つことになる。そういう意味で、彼らにとっての本とは商品の一形態である。これは、価値の捉えかたが多少異なるものの、古書店についても同じことだ。

 図書館にとっては、本とは商品ではなく、蔵書されるべき資料である。ゆえに、すべての本を揃えることが図書館の最大の理想だと言えるのだが、そんなのは物理的に不可能だ。そして蔵書された本は、できるだけ多くの利用者に閲覧されてこそ、図書館のサービスが良質であることを示してくれるものであると考えれば、図書館に勤める人たちの幸せは、蔵書した本ができるだけ多く――そしてできれば傷つけられたり、汚されたりすることなく借りられていくこと、ということになる。

 読者にとってはどうだろう。ひと口に「読者」といっても、愛蔵家や読書マニアなど千差万別だが、欲しいと思った本が欲しいと思ったときに手に入る、すぐ手元にある、というのが最高の状態だろう。だが、読者にとって本というのは、一度読んでしまえばそれっきり、ということが大半であり、なかには購入したものの、いまだページを開かれないまま積まれているものさえある。どちらかといえば本の形態よりも、そのなかに書かれている物語のほうに重点を置く私としては、できるだけ多くの物語と出会う場がある、というのが一番の幸せである。

 さて、今回本書『小さな本の数奇な運命』を紹介するにあたって、本にかかわる人たちの幸福がどうのといった話を前置きしたのは、「では本にとっての幸せとは何なのか」ということを考えずにはいられなかったからに他ならない。なぜなら、本書における一人称の語り手「ぼく」とは、一冊の本であるからだ。とある古書店の棚に並べられた一冊の本が、それまで自身が辿ってきた人生を語るという形式で進んでいく本書――しかし、語り手の「ぼく」はどうやら店内にいる客の誰かが自分を手にとり、買ってくれるかどうかということに戦々恐々としているようだ。それもそのはず、もし八月からはじまるヴァカンスまでに売れなければ「リサイクル」、つまり古紙として廃棄処分されてしまうのだ。

 ときに今度の持ち主は女性がいい、などと茶目っ気を見せたり、ときに自分より早く買い手がついた本にちょっとした嫉妬心をいだいたりと、なかなか感情豊かなところを見せる語り手の「ぼく」であるが、おそらく彼の性格を決定づけているであろう本のタイトルと、その作者が誰なのかという点について、本書のなかでは具体的に明かされることはない。ただ、ヘミングウェイやスタインベック級の作品であるとか、登場人物の少年が女性を知らないとか、あるいは作者は詩にかんして才能がなかったとかいった情報の断片はあちこちにちりばめられており、読み手によってはあるいはこの「ぼく」の正体についてかなりいい線まで絞り込むことができるのだろうが、本書にとって重要なのは語り手の正体ではなく、語り手が経てきた年月そのものである。

 語り手である本の持ち主は、これまで三人いたことになっている。最初の持ち主とは四十年近く一緒にいたが、戦争でも生きのびた持ち主の死とともに古物商に売り払われ、その後はそれぞれ違う目的でふたりの持ち主のものとなり、そして現在、古書店の棚に並んでいる彼の装丁も、すでにカバーを外された古書としての年月をかもし出している。六十年という時間はけっして短いものではない。人間なら、ほんの幼い子どもだった者が、すでに孫のいる年齢になっているほどの時間だ。けっして長い物語ではないにもかかわらず、一冊の本の人生を語るという本書のなかには、時代の移り変わりというものをたしかに感じとることができる。

 新刊書店がしばしば文学サロンとなり、客と店長、作家が集まって文学談義をするのがあたり前だった時代から、テレビの登場を経て、インターネットで世界じゅうと瞬時につながることができるという時代の流れ――だが、そうした時代の移り変わりを断片的にとはいえまのあたりにしたうえで、その変化を拒否するのではなく、新しいものとして受け入れていこうとする「ぼく」の姿勢は、そのまま本という表現形態が経てきた歴史そのものと結びつけることができる。そしてそう考えたとき、語り手の「ぼく」が、自身のなかに書かれている物語としてではなく、あくまで一冊の「本」としての物語を語ることの意義が見えてくる。

 ぼくはもっとひどい局面を乗り越えた。それに気づきもしないで。たとえばテレビ。「それは印刷物を一掃するだろう」と彼らは言った。彼らがそう言ったのをしっかり覚えている。五〇年代末ごろだった。

 本という形態は、これからどのような未来をたどっていくことになるのだろうか、というのは、本好きな方であれば誰もが一度は考えることだ。たとえば、電子ブック。ここ近年、紙に変わってパソコンや携帯端末を使って小説やマンガを読むという流れが起きている。とくに携帯電話の普及がそうした流れに拍車をかけているようで、なかには紙媒体は今後縮小していく方向になると考えている人もいる。だが、こと「本」という形態にかんしては、たとえばケータイ小説のように、もともと携帯ネットにあったものがあらためて本の形で出版されたり、人気のブログの内容が本になったりといった流れが生まれつつあるのも事実で、そんなふうに考えたときに、本書の語り手の「自分はまだまだ終わらない」という言葉は、力強く私たちの心に響いてくる。

 紙の上に文字を印刷し、それを束ねてつくられる本――長い時を経て、なお昔のままの形態を維持しつづけていることと、人が読書という行為に求めているものとは、きっと少なからぬ因果関係があるに違いない。そしてそのとき、本にとっての幸せとはどういうものなのか、読者はあらためて知ることになるだろう。(2007.11.12)

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