【新潮社】
『ウンベルト・エーコの文体練習』

ウンベルト・エーコ著/和田忠彦訳 



 本書『ウンベルト・エーコの文体練習』は、古典文学のパロディを扱った短編集、という位置づけにある作品だと言われている。たしかに本書を読んでいくと、過去のさまざまな文学作品の影を見ることができる。『ノニータ』などは、あきらかにナボコフの『ロリータ』を意識して書かれていることがわかるし、『フランティ礼讃』は、アチーミスの『クオーレ』(日本では『母をたずねて三千里』と書いたほうがご存知の方が多いかもしれない)に登場する悪童フランティを擁護するという内容となっている。『芸術家マンゾーニの肖像の再浮上による反復行為の散策のための彼の虚構化をめぐる小生の分析』という、やたら長いタイトルの短篇は、マンゾーニが書いた作品『いいなづけ』が、なぜかジェイムズ・ジョイスの手によって書かれたものであるとして批評を繰り広げていたりする。

 著者の手にかかると『聖書』は「全編アクション巨編」と化し、カフカの『審判』はサスペンス推理小説に、プルーストの『失われた時を求めて』は「まるで喘息病みのようだ」と一刀両断され、アントニオーニといった映画監督たちの作品は、きわめて簡素なシナリオと、それを構成するおのおのの要素の組み換えによってすべて表現されてしまう。まさにやりたい放題という表現がふさわしい本書だが、そのパロディ化の方法は鋭いところをついており、ニヤリとさせられるところもあるのは事実だ。しかし非常に残念なことに、本書の根底がパロディによって成り立っているため、その元ネタがわからないとまったくもって意味がわからない、という非常に困った作品であることもまた事実である。「わかる人にはわかる、わからない人にはわからない」――そういう意味では本書は非常に、そして非情なまでに読み手を選ぶ作品なのだが、はたしてそれは真実なのだろうか。いや、そもそも本書は本当に文学作品のパロディ化が目的で書かれたものなのだろうか。仮にも『薔薇の名前』という傑作ミステリーを書くことができる著者が、わかる人にしかわからないような、そんな選民思想丸出しの作品を書いて良しとするだろうか。

 この問題を考えるにあたって、まずはっきりさせておかなければならないのは、「パロディとは何か」という命題である。たとえば、京極夏彦の『どすこい(仮)』(現在は文庫本で出された『どすこい』をもって完成品となっている)は、瀬名秀明や鈴木光司、宮部みゆき、森博嗣といったミステリ作家の代表作を、ことごとく「醜悪に肥え太った相撲取り」という命題で変形させることで読者の笑いを誘う作品となっている。また奥泉光の『『吾輩は猫である』殺人事件』は、文豪夏目漱石の『吾輩は猫である』の後日談という形で物語がはじまっている。イアン・マクドナルドの『火星夜想曲』は、『火星年代記』をはじめ、さまざまなSF小説の要素をその内に抱え込んでいる作品である。いずれも、既存にあるものを元にして独自のアレンジをくわえたり、いくつもの要素を組み合わせたりする、という方向性は同じである。そして、こうした物語のある種の変容作業は、既存の物語の形がはっきりとしていることを前提とするパロディにおいて、これまでとは異なった視点、異なった捉えかたが存在することを提示する作業と結びつく。

 つまりパロディとは、既存の作品に大きな影響を受ける、という感情があってはじめて成立するものなのである。だが、そもそも何らかの芸術を志そうとする者たちは、誰もがかつて何かの芸術作品に影響を受けたからこそ、芸術家たることを目指したのではなかったか。多くの人々に感銘をあたえるすぐれた芸術作品は、その影響の大きさゆえに、必然的に多くの人によって模写され、模倣されていく運命から逃れることはできない。だとすれば、およそこの世にあるすべての芸術作品は、必ず何かしら既存の芸術作品の影響下にある、ということになりはすまいか。

 前述した本書の作品のひとつ『芸術家マンゾーニの〜』のなかで、著者は『いいなづけ』がジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の続編であるという証拠として、さまざまな角度からその類似性を提示してみせるが、そうした提示は、おそらくどのような作品に対してもある程度こじつけることができるものなのだ。では、この世にあるあらゆる芸術作品は、何かのパロディなのか? こんなふうに考えていくと、そもそも「パロディとは何か」という命題そのものが、ほとんど意味のないものであることがわかってくる。あるひとつの芸術作品を前にして、それを「パロディ」とするか、あるいは「オマージュ」とするか、そのあいだに絶対的な判断基準など何もないのである。

「文体練習」というタイトルが冠されている本書であるが、その本質は、たとえばレーモン・クノーの『文体練習』のような、純粋に言葉の可能性を追求するようなものではなく、むしろ古川日出男の『アラビアの夜の種族』に見られる「物語の拡散と変容」がもつ、ひとつの可能性だと言える。それは、既存の作品を元としていながら、それを超えていこうとする人間の上昇志向の一形態なのだ。もちろん、本書のなかの試みがすべて成功していると言うつもりはない。だが、たとえそのパロディの元となっている文学作品がまったくわからなかったとしても、読者はきっと『物体』に込められた科学技術への皮肉や、『ポー川流域社会における工業と性的抑圧』にある西欧文明社会への痛烈な批判や、『新入り猫の素描』における虚構と現実の境界線の揺らぎといった要素を感じ取ることができるだろう。そこから先の作業――あくまでその元ネタを求めて文献をあさるか、わからないまま放っておくか、それともまったく新しい要素として取り入れるかは、それこそ個々の読み手にゆだねられることである。(2005.02.01)

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