【幻冬舎】
『悪魔のパス 天使のゴール』

村上龍著 



 サッカーのエース的ポジションと言えばフォワードだという認識は、ある意味で間違いではない。相手のディフェンダーやゴールキーパーをかわしてシュートを決める役割を負っているフォワードは、直接自チームの得点に結びつくポジションであり、攻撃の要でもあるがゆえに、華やかな側面をもっている。フォワードがいなければ得点することはできないし、得点しなければチームは勝つことはできない。フォワードこそがサッカーのエースという認識――それが、私をふくむサッカーの素人の大半がいだいている印象であるが、そうした認識を大きくくつがえす日本のサッカー選手が登場する。

 1998年のフランスワールドカップは日本チームがはじめて本戦に出場をはたした大会であるが、その原動力となったと言われるのが中田英寿という選手である。そして彼は、フォワードとしてゴールを決めるのではなく、フォワードにボールをアシストするポジションにいる選手だった。当時、彼のパスを「キラーパス」と称して賞賛するメディアが続出したことを覚えているが、本書『悪魔のパス 天使のゴール』を読むと、ゴールを決めるシュートではなく、そこに結びつく絶妙なパスが、その試合をいかに印象づけるものであるかが見えてくる。

 これだ、とわたしは呟いた。これが夜羽冬次のスルーパスだ。――(中略)――まるでメジャーで測ったかのように、ディフェンダーの数センチ横をボールが通過していく。ゴールのときにはスタジアムが爆発するが、スルーパスが通ったときはスタジアムが凍りつく。

 イタリアのプロサッカーリーグであるセリエAの下位チーム、メレーニアで活躍する日本人選手として本書に登場する夜羽冬次が、中田英寿をイメージしたキャラクターであることは想像に難くない。一人称の語り手として登場する、著者自身を髣髴とさせる矢崎剣介は、そんな夜羽のファンであり、また彼の親友としてしばしばスタジアムの席を用意してもらったりしている間柄であるが、ある試合後に矢崎が誘ったレストランの席で、夜羽の口から「究極のドーピング」の噂を聞かされる。

 イタリアのサッカーチームに所属している外国人選手が、試合後に心臓発作で死亡するというケースが相次いでいる、しかも、その直前の試合中では決まって超人的な運動量を発揮して大活躍している。それだけであれば、とくに不審に思われることもないのだが、じつは少し前に、夜羽はパーティーの会場である女性から遠まわしに忠告を受けていたという。飛躍的に運動能力を高めはするが、その後に服用した選手を確実に死に至らしめるドーピング剤――はたして、そのようなものが本当にあるのか、そしてあるとすれば、誰が、どのような目的でそのような薬を選手にばら撒いているのか。他ならぬ夜羽の頼みとあって、矢崎は夜羽と接触したという女性、コリンヌ・マーティン博士と会うためにフランスへと向かうことになるのだが……。

 というふうに、本書はあくまでフィクションとしてのストーリーを持ってはいるが、じつのところ「究極のドーピング剤」という要素は、本書のメインテーマとして機能しているわけではない。著者が書きたかったものは、あくまでサッカーであり、そして中田英寿の分身ともいうべき夜羽冬次の活躍である。では、「究極のドーピング剤」をめぐるストーリーはまったくの瑣末なのかと言えば、けっしてそんなことはない。著者がリアルなものとして経験しているイタリアサッカーの熱狂――観客にとっても、選手にとっても、人生そのものとして彼らとともにあるサッカーのリアルを支えるもののひとつのして、「究極のドーピング剤」は非常にうまく機能しているし、またその荒唐無稽さをイタリアサッカーのリアルな息吹が支えてもいる。

 たとえば、イタリアのサッカーの試合では、その勝敗によってそれこそ死傷者が出るような暴動が起こるのが日常であり、また勝利のために審判を買収するようなことさえもあるという。それはサッカーという競技やその観戦をあくまで趣味としてとらえている私たち大半の日本人にとっては、そのこと自体が荒唐無稽なものとして映るに違いない。だが、それをまぎれもない現実とする世界が本書のなかにあり、それがまぎれもない現実だと思わせるリアルさがそこに描かれている。それこそ、ドーピングをしてでも勝ちたいと選手に思わせるようなサッカーの熱狂が、そこにはたしかにあるのだ。

 そしてこのストーリーのもうひとつの効果は、旅行記としての雰囲気づくりである。じっさいに矢崎は、このドーピング剤をめぐってイタリアからフランス、ベルギーからアムステルダム、メキシコからキューバへとめまぐるしい移動を繰り返すことになるのだが、そこに描かれる風景や宿泊施設、バーや食べ物といった情報の詳細さは、「究極のドーピング剤」という言葉がもたらす切迫感とは無縁のものだ。おそらく、著者自身の体験が大いに関与しているであろうそうした情報は、それぞれ旅行エッセイとして独立して存在していてもおかしくはないつくりになっている。

 本書はたしかに小説という形をとってはいるが、じつのところ本書は著者の旅行記であり、またサッカー観戦記という側面が非常に強い作品だと言うことができる。さらに言うなら、中田英寿というサッカー選手への限りない愛に溢れた作品、ということだ。プロのサッカー選手であればこうあるべきだという高い水準をもち、そこに近づくために努力しつつも、その努力を安易にメディアに語ったりしない、ある意味で独特の「個」をもつ日本人サッカー選手が、イタリアのプロリーグで活躍する――そんな小説を書きたいという強い思いが結実したのが本書である。

 ビッグクラブのスター選手には誘惑や罠も待ち受けている。――(中略)――そういう混沌の中、選手たちはピッチで人生の回答を出そうとする。パパラッチも、麻薬も、マフィアも、詐欺師も、金をせびる親戚も、ピッチの中には入ることができない。ピッチは選手だけのもので、彼らはそこで自分のすべてを賭けて戦うのだ。

 正直なところ、本書が小説という形をとること自体が最善だったのか、という疑問はあるし、ふつうにサッカーのエッセイとして書いたとしても成立したのではないかという思いもある。だが、「究極のドーピング剤」という、人間の負の感情を象徴するようなアイテムと対比されるかのように書かれる、ピッチ上のサッカー選手たちの試合の様子は、たしかな生きた人間として読者に訴えかけてくるだけの何かがあるのもたしかである。もしかしたら本書は、あなたのなかにあるサッカーというスポーツに対する認識を、大きく変革させるかもしれない。(2012.05.09)

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