【WAVE出版】
『どろぼうの神さま』

コルネーリア・フンケ著/細井直子訳 



 駅構内やデパートなどで、小さな子どもがまだたどたどしい足取りで前を歩いているのを見ると、とかく人より歩くのが速くなりがちな私などはちょっと邪魔だなあ、と不謹慎にも思ってしまうのだが、いざその子どもの横を通り過ぎようとすると、意識して下を向かないかぎり、私の視界から子どもの姿は消えてしまう、という事実がけっこうな驚きだったりする。よく「子どもの視点に立つ」と言われるが、大人が見る世界と子どもが見る世界とは視界という点からもあきらかに異なっていて、そういう意味でも、私は自分がすでに大人の視点から物事を見ているのだ、とあらためて実感させられることになる。だが、私も昔は小さな子どもだった時期があり、子どもの視点をたしかに持っていたはずなのだ。

 幼い子どもが認識できる世界は、ごくかぎられている。同じ家の中でも二階につづく階段が大きな障害となって立ちはだかっていたり、通学路からはずれている近所の角から向こう側が、未知の領域のように思われたりした時期があったことを、私は覚えている。もちろん、大人になった今の私であれば、その気になればどこにだって行くことができるし、喫煙や飲酒、自動車の運転など、子どもの頃にはできなかったさまざまなことに手が届くようになっている。ただ、昔はいかにも大人の特権のように思われたさまざまな事柄に、今ではさほどの魅力を感じることもなくなってしまった自分がいる。そして、なんとも妙な気分になるのだ。

 小さい頃、20歳というとすごい大人のように思ったものだが、じっさいに自分が20歳になってみると、ちっとも大人になったという気がしなかった。だが本当は、その時点で私はもう子どもではなくなっていたのだろう。なぜなら、子どもの頃に何を考え、世界をどんなふうに見ていたのかをもし覚えていたなら、おそらく私は大人になったことを、もっと素直に喜んでいたに違いないからだ。本書『どろぼうの神さま』に登場する、スキピオのように。

 物語は、「月の都」と称されるヴェネツィアで私立探偵を営むヴィクトール・ゲッツのもとに、子どもを捜してほしいという依頼が舞い込むところからはじまる。依頼主の女性はその子どもの伯母にあたる人物で、妹の死後、残された兄弟のうち弟のほうだけを引き取ることになっていたが、兄が弟をつれて彼女のもとから逃亡、このヴェネツィアにいることをつきとめたというのである。
 いっぽう、その幼い兄弟、プロスパーとボニファツィウスは、依頼主の予想どおりヴェネツィアにいた。彼らは廃館となった映画館をねぐらとする、みなしごたちのグループと行動をともにしていたのである。ことあるごとに自分たちの行動を制限し、規則や罰で押さえつけようとする大人たちのいない、自由で無秩序な子どもだけの生活――そして、彼らには「どろぼうの神さま」を自称するスキピオがついていた。どんなに警戒厳重な屋敷にも難なく入り込み、財宝を盗み出してしまう「どろぼうの神さま」は、その金をみなしごたちのグループの生活費にあてていたのだ……。

 はたしてプロスパーとボーの、そしてスキピオたちの運命は? 物語は当初、ふたりをかくまうみなしごグループと、そんな彼らを追う探偵ヴィクトールとの、ヴェネツィアを舞台とした危機一髪の追跡劇を思わせるような流れを見せるが、その後、ヴィクトールの調査によって彼らのねぐらが見つかってしまうあたりから、物語は二転、三転とその様相を変えていくことになる。スキピオの意外な正体とみなしごたちとの対立、「伯爵」と呼ばれる謎の人物からの奇妙な依頼、古いメリーゴーラウンドにまつわる不思議な言い伝え、そして不気味な噂の絶えない干潟の離れ小島――さまざまな謎と魅力的な伏線で読者をたくみに物語世界へとつなぎ止め、いかにもものの道理の通じない五才児らしいわがままぶりを発揮しては、ことあるごとにスキピオたちを窮地に陥れるボーの言動にハラハラさせられながらも、しかるべき大団円へと導いていくそのストーリーテリングの技は見事の一言に尽きるが、本書の一番メインとなるのは、やはりタイトルにもなっている「どろぼうの神さま」とは何なのか、という点である。

 いつもかかとの高いブーツを履き、カラスを思わせる黒い仮面をつけてみなしごたちの前に現われる「どろぼうの神さま」ことスキピオは、たしかに大人顔負けの切れ者ではあるが、プロスパーが指摘するように、彼もまた子どものひとりに過ぎない。そして、本来なら彼もまた誰かの庇護下にあるべき年齢であり、とてもみなしごたちの世話を引き受けられるような立場ではないのだ。にもかかわらず、スキピオはみんなの前でいつも精いっぱい背伸びをして、自分を大人に見せようと必死である。彼のそんな思いは、物語が進むにつれて、徐々に切実な願いとなって現われてくることになる。

「子どもはイモ虫、大人はチョウチョ。それで、チョウチョはイモ虫だったときの気もちを、わすれちまうんだ」

 じつは言えば、「どろぼうの神さま」という言葉が出てくるのは、物語の最初のほうだけであり、スキピオの正体があきらかになる物語の中盤以降、この言葉はほとんど文章に登場しなくなる。もちろんそれは、スキピオの正体がわかってしまった以上、「どろぼうの神さま」という言葉を隠れ蓑にする意味がなくなったからに他ならないのだが、蝶のように空を飛ぶこともできない醜いイモ虫を「子ども」ととらえているスキピオにとって、大人になることは、大空を飛び回る自由を得ることに等しいものだった。そして、もしそんなふうに考えていたのなら、彼にとっての「どろぼうの神さま」とは、自分の正体を隠すためというよりも、むしろ力ある「大人」を演じるために必要な「衣装」、スキピオが心の中にもっている、象徴としての「大人」への強い憧れだと言うことができる。

 子どもは時が来れば、いつかは大人になる。だが、大人になるのを待ってなんていられない。今すぐ大人になりたい。大人になって、早く自分を押さえつけるさまざまなものから解き放たれて、自由にふるまいたい――自分のことなんかちっともわかってくれない大人たちに囲まれて育ってきた、かつては子どもだった私たちは、おそらく一度はこんな願いを抱いたことがあるはずなのだ。そしてだからこそ、スキピオが見せる「大人」になることへの執着が、私たちの心を打つ。

 大人はけっして「どろぼうの神さま」にはなれない。「どろぼうの神さま」になれるのは子どもだけである。だが、すべての子どもが「どろぼうの神さま」になれるというわけでもない。子どもだけが持つことのできる、「大人」への憧れこそが、「どろぼうの神さま」を生み出すことになるのだ。いつのまにかその「大人」としてあつかわれるようになった私であるが、本書のスキピオのように、もしかしたら自分も昔は思い描いていたかもしれない素敵な「大人」の姿は、きっと多くの読者になつかしいような、あるいはくすぐったいような気持ちを引き起こすに違いない。(2005.02.19)

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