【新潮社】
『デミアン』

ヘルマン・ヘッセ著/高橋健二訳 



 およそこの世のなかにあるものはわからないものばかりであるが、なかでも自分とは何なのか、という命題ほど難問なものはない。他ならぬ自分自身のことであり、一番身近にあって、よくわかっていなければならないはずなのに、いざ自分自身のことを思索していくと、たちまち大きな壁にぶちあたることになる。たとえば、昨日の自分と今日の自分が、連続した同一のものとして認識できるのはなぜなのか。昨日の自分と今日の自分とは、厳密には異なる存在であるはずなのに、どちらも同じ「自分」であるときちんと把握できるというのは、よくよく考えるとじつに不思議なことである。

 人は自分が自分であることをどうやって保ち続けているのだろうか。自身の記憶が連続しているからなのか、あるいは目が醒めたときの周囲の環境が、眠る前のそれとおおむね一致しているからなのか――しかしながら、もし外的要因のあらゆるものが自身の記憶とまったく異なる人物こそが「自分」であると主張しはじめたとしたら、私たちはその不一致をどう是正し、何を真実として受け取ることになるのだろうか。

 私たちの考え、私たちの感覚、私たちの行動の源泉について、私たちが思っている以上に外的要因によって影響されていることを知っている。自分自身というものは、じつはこのうえなく脆弱な根拠によってしか支えられていない、曖昧模糊としたものなのだ。絶対的な観念が死滅し、相対主義を生きる私たち――常に変化しつづけていく自分のなかで、それでもなお変わることのない確固たる自分というものが、はたして存在しうるのかどうか。今回紹介する本書『デミアン』を読んでいると、そんな難題についてあらためて考えずにはいられなくなる。

 デミアンは大胆不敵な者と臆病者について、なんとふうがわりな話をしようとしたことだろう! カインの額のしるしに彼はなんと異様な解釈を下したことだろう! ――(中略)――彼自身、このデミアンこそ、ああした一種のカインではないかと。

 しばしば旧約聖書のカインとアベルの逸話をとおして語られるマックス・デミアンは、語り手であるエーミール・シンクレールの人生において、何度か転機となる影響をおよぼした人物であり、またそのタイトルが象徴するとおり、本書の大きなテーマそのものでもあるのだが、その最初の転機は、シンクレールが幼少のころ、悪童であるフランツ・クローマーの魔の手からデミアンによって救われるという、非常にわかりやすいエピソードをもって語られる。

 自身の嘘によってフランツ・クローマーのいいなりになるしかなかったシンクレールの窮地を見抜いたデミアンが、はたしてどのような手段をもちいてフランツ・クローマーをしりぞけたのか、シンクレールの語りによって進められる本書にその詳細は書かれてはいないが、人の弱みにつけこんで人を支配しようとする、ずるがしこく腕力もあるフランツ・クローマーの豹変ぶりを考えれば、デミアンが彼を超えるようなあくどい手段をもちいたのだろうと想像するのは容易である。そして、まさにそれがわかったからこそ、デミアンによって救われたという事実を知りながら、シンクレールは彼に感謝しながらも、その力を恐れ、彼と距離を置くようにさえなる。

 勧善懲悪という言葉がある。世のなかが善と悪という明確な区別によって成り立ち、善人はかならず報われるし、悪人はその報いを受けることになると説くものであるが、デミアンの行為は、その行為だけで判断するなら、むしろ悪の側に属するようなものだと言える。だが同時に、彼とフランツ・クローマーとのあいだには決定的な違いがある。それは、前者が自身の欲望を充たすために悪いことをしていたのに対し、後者は純粋にシンクレールを救うために、悪という手段を利用した、という点である。そして語り手のシンクレールは、この世界がけっして善性だけで成り立っているわけではなく、常に善と悪の二面性をもちあわせているという事実に気づいているふしがある。

 善と悪という観念が絶対的なものではなく、むしろ時代により、地域により、思想によってその範囲が変化していくものであるという考えは、相対主義の現代でこそあたり前となっているが、キリスト教をはじめとする絶対的一神教を信仰する世界にとって、善や正義、道徳といったものは常に神と結びついている。絶対的存在である神の教えは絶対であるという考えが支配的だった時代において、それに反する行為は問答無用で「悪」とされてしまうのは、まさに「常識」だったことになる。本書を読んでいくとわかってくるのだが、デミアンがもっとも嫌っているのは、あるひとつの考えだけを無批判に受け入れてしまうという行為であり、本来は「悪」に属する行為ではあるが、それを他の誰かの窮地を救うという自身の信念に従って、あえてその「悪」を実行するというデミアンの行動は、およそそれまでの「常識」からはかけ離れたものだと言うことができる。

 自身の行動理念を神に委ねてしまうのではなく、その時その時の自身の判断と責任に基づいて、最適な行動をとっていこうとすること――ひとりの人間が真の「人間」として行動することというテーマが、本書のなかにはたしかに息づいている。そして、当時の人間としては考えることすらありえないような観念について、シンクレールもまた興味を惹かれていく。

 自分で考え、みずから裁き手になるには気楽すぎる人は、しきたりになっている禁制に順応する。そのほうがらくなのだ。他方また、自己の中におきてを感じている人もある。その人たちにとっては、れっきとした人がみな日常やっていることが禁じられているのだ。そして、ほかの人には厳禁されていることが、彼らには許されている。

 宗教と強く結びつく近代の道徳について、最初に批判をくわえたのはニーチェであるが、なかでも彼が忌み嫌ったのが、自己意識の欠如した人間である。彼の著作は、そうした人間の馬鹿さ加減を訴えたものだとさえ言うことができるのだが、ここでいう自己意識とは、自分たちがごく自然だと考えている価値判断が、あくまである一時代の偏見にすぎないのではないか、と客観視できる人間のことであり、そうした偏見に満ちた外的世界のいかなるくびきからも解放された究極の自立者としての超人思想へと発展していくことになる。カインのしるしに導かれ、真の自立者としての道を知らず歩み始めていくさまを描いた本書は、それまでにない新しい自己を探求する作品として、ひときわ大きな輝きを発している。(2012.07.01)

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