【幻冬舎】
『鹿男あをによし』

万城目学著 



 人にはそれぞれ思惑とか都合とか、個人的な好き嫌いとかいったものがあって、そうした数々の要素がいろいろ絡み合ったうえで何かを選択し、行動を起こしていく。誰もが合理的、理性的な視点でもって、全体としてより良い成果を出すためにそれぞれの役割をはたしていければいいのだが、誰もがそんなふうに割り切ってものを考えられるわけではないし、そうでなくても人の思いや考えというのは、時と場合によって変化を余儀なくされていくものでもある。

 人間がその進化の過程でもってしまった自我というものは、全体としての効率という点では、ときにやっかいな代物だ。たしかに、プログラムしたとおりの動作を何時間でも精密につづけることができる、ということを考えれば、人力よりもコンピュータのほうがはるかに優秀だと言える。だがそれは、型どおりのものを型どおりにこなしていく、というだけのことでしかなく、そこからさらなる発展性を望むのであれば、どうしても人の手が必要となる。

 同じものを大量につくる、という単純な事柄においては、人より機械のほうが勝っているのだろう。そのほうが管理もしやすいし、将来的な予想もつきやすい。だが、そうした精密性を度外視したうえで、結果として同じような成果が得られるのであれば、人間のもつ自我が引き起こす意想外な考えや行動は、あるいは何者かを飽きさせないものがあるのかもしれない。本書『鹿男あをによし』を読み終えたときに、私はふとそうしたことを思い浮かべたのだが、それはひとえに、本書のなかで行なわれる「ある儀式」の、およそ非効率的で無駄が多く、また多分に偶然が左右する要素が、どうにも気になってしまったからに他ならない。

「先生はこれから京都に行く。そこで渡されるものを無事にここに届ける。それが“運び番”の役目だ。どうだ? とても簡単な役目だろう?」
 ――(中略)――
「わ、渡されるって……何を?」
「“目”だ」
「は?」

 本書における一人称の語り手は、産休をとった教師の代わりに、二学期の間だけという条件つきで、奈良にある奈良女学館の講師を務めることになったのだが、とうの本人はけっしてこの赴任を快く思っていないところがあった。それというのも、とある教授の助手との関係が険悪になっていて、周囲からは「神経衰弱」だと言われたあげく、体よく研究所から追い出されるような形になってしまったからだ。しかも赴任早々、受け持ちのクラスの堀田という生徒にからかわれ、それがきっかけとなってクラスとの関係までギクシャクしてしまうありさま。そんな、けっして幸先の良いスタートとは言えない状況にあった語り手は、赴任して一ヶ月経ったある十月の日、唐突に雌鹿から声をかけられる。

 舞台が奈良であるだけに、本書のなかには多くの鹿が登場するのだが、そのなかの一匹が人間の言葉で話しかけてくる、ということだけでも異常な出来事であるのに、さらにその雌鹿は語り手のことを「先生」と呼び、“運び番”に選ばれたから京都に行って“目”を持って来いと一方的に通知される。はたして“運び番”とは、“目”とは何なのか、そして、なぜよりによって自分がそんなものに選ばれなければならないのか。なにより、十月が終わるまでに“目”を届け、ある儀式を行なわないと、日本が滅ぶというその雌鹿の言葉は本当なのか?

 多くの事柄が謎のまま、やむにやまれぬ事情もあって「先生」が“目”と呼ばれるものを求めて奔走する、というのが本書の大筋であるが、不本意ながら地方の学校の教師となるという経緯や、下宿先での面倒見の良いおばあさんの存在、やることなすことがことごとくみんなに知られてしまうという地域性や、奈良女学館での個性的な先生たちや「マドンナ」の存在など、言うまでもなく夏目漱石の『坊っちゃん』を髣髴とさせる。となれば、本書のタイトルにもある「鹿男」というのは、必然的に語り手につけられたあだ名ということになるのだが、じつはこれはたんなるあだ名ではなく、そのままの意味での「鹿男」である。つまり、語り手はそのあまりの要領の悪さから、その雌鹿に「印」をつけられ、その結果として自分の顔が少しずつ鹿になってしまうという状況に陥ってしまうのだ。

 こうして話の筋を説明していくと、「先生」の置かれた状況は相当に理不尽なものなのだが、六十年に一度のサイクルで、“目”を鹿、狐、鼠のあいだでやりとりし、儀式を行なうさいのそのやりとりの部分も、システムとしてはずいぶんと不確定性の多い、ずさんな方法なのだ。国が滅ぶほどの一大事を、「先生」のような何も知らない一介の人間にまかせなければならないというのも問題だが、肝心の“目”や、他の“使い番”が誰なのかもはっきりしておらず、そのうえ鹿と鼠のあいだには何か確執があるらしく、なかなか鹿の思うようにはいかない。じっさい、「先生」は“目”が女学館対抗戦の優勝プレートだと思い込み、そのために剣道部の顧問となって強豪校相手に勝ち抜かなければならない羽目に陥るのだが、それらの努力はまったくの無駄になっている。

 むろん、当初は最悪だった「先生」と堀田との関係が多少改善されたという点で、剣道部の対抗戦は無駄にはなっておらず、それがその後のふたりの行動につながっていくのだが、たんに“目”を確実に届けるというだけのことに、なぜこれほどまでの労苦がともなってしまうのか、ということを考えたとき、逆に私たちは、それこそが人間としての本質を表わしているということに気づく。私たちは人間であって、機械ではない。あたえられた役割を、ただたんにこなすというだけでは、あまりにも人間味に欠けてしまう。私たち人間は疑り深く、自分たちが中心だと考え、欲に支配されたり、勘違いや過ちを犯したりもする。だが同時に、想像力をたくましくして、それまでにない価値観を生み出し、より良い方向に力を合わせていくこともできるのだ。

 本書に登場する人たちは、「先生」もふくめて、誰もがひとつの大きなシステムのひとつとして組み込まれてしまっていた。だが、誰もがシステムを滞りなく動かすために完璧ではなく、そのためにさまざまな問題が起こった。だが、そうした紆余曲折はあるにしろ、最終的には望んだとおりに物事が運んでいく――それがはたして、偶然なのか必然なのかはわからない。だが、そうした機械ではない、完璧ではない人間たちに対するささやかな愛情が、本書のなかにはたしかにある。

 思えば、著者の前作『鴨川ホルモー』においても、物語を展開させていったのは、きわめて特殊な状況に置かれたうえでのホルモー試合だった。著者の作品には、式神や妙な儀式といった、現実にはありえないファンタジックな要素を扱いながら、それらをふくめた全体が非常に人間臭く、だからこそ読者を物語世界になんらかの親しみを感じることができる。人間に忘れられてしまって、なお続けられてきた儀式――はたしてそこに、どのようなメッセージが隠されているのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2009.07.10)

ホームへ