【新潮社】
『遠い音』

フランシス・イタニ著/村松潔訳 



 以前、西村京太郎の『四つの終止符』をとりあげたときに、健常者が身障者に対して無意識にいだいてしまう差別意識について書評に書いたことがある。耳が聞こえないという障害をかかえたある男が、ことあるたびに感じずにはいられなかった社会からの疎外感と孤独を、ミステリーという要素のなかに織り交ぜて描いたこの作品において、私たちがいかに目で見、耳で聞き、そして口から言葉を発してコミュニケーションをとることを前提として物事を考えているかということを、あらためて自覚させられることになるのだが、それらの行為は、大半の健常者からすればあまりにあたり前のことすぎて、ふだん意識するようなことでないだけに、そうした感覚に何らかの障害をもつ人たちに対して、無自覚に自分たちこそが正常であるという視点からなかなか逃れられない、という事実を読者に突きつけるものでもあった。

 生まれつき目の見えない人に、抜けるような空の青さをどうやって伝えることができるのか、音という概念の存在しない世界に生きる人に、オルゴールが鳴らす心地よい音色をどのように表現すればいいのか――ただでさえコミュニケーションの道具としては不完全な言葉を前に、言いたいことがうまく相手に伝わらないという断絶感に打ちひしがれることのある私たちである。感覚の一部を共有できない人たちにとって、周囲に広がる世界がどのようなものとしてとらえられているのか、想像するのはけっして容易なことではない。

 しかし、沈黙は護ってくれるものであることも、グローニアは知っていた。沈黙のなかにいるのは、水中にひそんでいるようなものだった。水面に出たいと思ったときにだけ、彼女は水面に顔を出す。

 本書『遠い音』に登場するグローニアは、猩紅熱が原因で五歳のときに耳が聞こえなくなった女性であり、そのときから彼女の認識する世界は、ふたつに分裂してしまったと言うことができる。それは、彼女にだけ感じとることのできる沈黙の世界――音が存在しないことを前提とする世界と、彼女には感じとることのできない、しかし自分以外の多くの人が生きている、音に満ち溢れた世界のふたつであり、グローニアの人生は常にそのふたつの世界を行き来すること、その距離感をどうとらえるかということが、生きていくうえで重要な意味を帯びることになる。

 沈黙の世界はあくまでグローニアだけの世界であり、他の人たちには想像することしかできない場所でもある。もちろん、極端なことを言ってしまえば、人が感じとり、認識する世界はひとりひとりが何らかの違いをもっているはずであり、それこそがその人の個性を司ることにもなるわけであるが、グローニアの場合、自分と他者との認識する世界の断絶が深く、人と接するさいには常にその断絶を意識していかなければならない。少数派、障害者であるがゆえにつきまとう疎外感と孤独――だが、本書を読み進めてわかってくるのは、耳が聞こえないというハンディをハンディとしてではなく、むしろ個性の強さとしてとらえていこうとするグローニアの静かな意思である。

 むろん、言葉を発音から学ぶことができず、また自分の口から発された声を聞くこともできないがゆえに、どうしても他人には奇異に聞こえてしまうその喋り方をからかわれることは避けられないものの、絵本のなかの文字を発音と結びつけたり、人が話すときの唇の動きを読み取らせたりといった祖母の訓練をとおして、幼年時代のグローニアは音のある世界とのつながりをたもつべく努力してきた。驚くべきことは、子どもであるがゆえの豊かな想像力によって、グローニアとその家族や親しい友人たちが、発音以外の多くの方法で意思の疎通をはかってきたという事実だ。独自の身振り、言葉遊びのような造語――なかでも印象的なのは、寝るときに姉のトレスの足と自分の足を一本のひもでつなぎ、ひっぱったりひっぱられたりするというもので、それはじつに単純なことながら、グローニアにとっては自分が音のある世界の誰かとたしかにつながっているという心強さになっていた。

 本書は大きく五つの章で構成されており、それぞれ年代によって区切られているため、基本的にはグローニアの幼年時代から、後に婚約するジムとの出会い、そして第一次世界大戦の勃発にともなうジムの出征を経て、戦争終結にいたるまでの半生を時系列に描いた作品としてとらえることもできるのだが、本書がグローニアを主体とするパートだけでなく、野戦病院部隊に配属になったジムを主体とするパートもあることから、グローニアの物語というよりは、むしろグローニアとジムのふたりの物語という様相を呈している。そして、音のない世界を生きるグローニアとは対照的に、ジムの世界には常に音楽が満ち溢れており、そういう意味ではこのふたりはお互いが属する世界においても対極に位置する性質をもっている。

 引き裂かれたふたつの世界の狭間に生きるグローニアが、ジムという人物を介することで、音のある世界について自分なりの理解を深めていこうとする過程をとらえるなら、本書はまさに人と人とのつながりについて書いた物語であると言える。それも、けっして安易な言葉ではなく、肌で感じ取ることのできるつながりである。ピアノを弾くジムの指の動き、足元からかすかに響くその振動、彼が言葉を発するときの唇の動き、そして触れている喉から伝わる震え――グローニアにとって重要な「動くものと動かないもの」という認識を最大限発揮して、意識することのできない「音」をとらえていこうとする姿は、安易な言葉を介さないがゆえに感動的なものがある。だが、同時にジムの側に立って本書をとらえたとき、そこで発生するのは「戦場」という、その場にいなかった者にはけっして理解することのできない別世界である。

 耳を聾するほどの爆撃や轟音にまみれ、人の命が無慈悲に失われていく戦場という名の世界――それは、グローニアのかかえる沈黙の世界と対極をなす、もうひとつの孤独な世界としてジムのなかに定着していくが、その世界はけっして彼を守ってくれるようなものではない、やすらぎとは程遠いものである。お互いにつながりたいと願いながらも、戦争によって物理的に引き離されてしまった婚約者たち、という構造のなかに、本書には自分以外の誰にも理解できない世界をかかえて生きていかなければならない、というテーマがある。

 その瞬間、彼女が知ったのは、振り返ったときにはっきりと悟ったのは、たとえトレスやマモとでさえ、けっして分かち合えないものがあり、けっして理解してもらえないものがあるということだった。――(中略)――いま彼女が生きている人生のこの一部分は、けっして理解してもらえないだろうということだった。

 グローニアの障害を自分のせいだと責め、奇跡が起こることを望んでいる母親、グローニアと同じく、耳に障害があるためにその立派な体躯にもかかわらず兵役に出ることのできないコリン、そんな彼を戦争忌避者として非難する女性、戦争で負傷し、それ以上の傷を心に負ってしまったケナン、そして戦争によって同じ人間でありながら敵兵として殺し合いをしなければならない人々――本書に登場する人たちは、誰もが多かれ少なかれ誰にも分かち合えない苦悩をかかえている。耳の障害も、戦争も、つながらない思いという意味では同じようなものだ。だが、たとえ底知れない穴の中に放り込むような行為であったとしても、ほんのわずかな希望とともに人々とつながっていこうとするその姿は、静かではあるがこのうえない力強さをもって読者の心に響いてくる。

 耳が聞こえない日常を生きることの絶望、戦場をはいずり回らなければならない絶望――それは、たしかにしばしば人々の心を折るのであるが、けっしてそれだけではないこと、孤独と絶望のなかから、それでも一欠けらの希望を見出すことができる人間の生き様は、きっと本書を読み終えた人たちの心にも同じような希望の光をともすことになるだろう。(2007.05.29)

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