【早川書房】
『死せる少女たちの家』

スティーヴン・ドビンズ著/高津幸枝訳 

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 真相究明、あるいは全容解明といった言葉が、新聞やニュースといったメディアで繰り返されることがある。それはたいてい、なんらかの大きな事件――それは痛ましい殺人事件であったり、大規模な脱税事件であったり、あるいは人的ミスによる大災害であったりとさまざまであるが――が起きたときに言われるもので、ようするに、その事件がどうして起こったのか、その真実を明らかにしてほしいということであるのだが、物事の真実を究明するという行為は、必ずしも人々に安寧をもたらすというわけではない。むしろ真実を知ってしまったことで、これまでたしかにあったはずの安寧や、今まで信じてきた認識が永遠に失われ、否応なくこれまでとはまったく異なった意識でこの世界をとらえ、生きていかなければならなくなることもありえるのだ。

 たとえば、人はこの世に生まれてきた以上、必ず死を迎える。これはけっして変えることのできない真実のひとつであるが、私たちがふだん、自分たちの日常生活をおくっているときに、この真実を意識することはない。なぜなら、その真実には「いつ」という要素が抜けているがゆえに、大半の人たちにとってはあまり実感がわかないものであるからだ。だが、もしその「いつ」という真実がわかってしまったとしたら、どうだろう。おそらく、その人の生き方、物事の考え方、世界のとらえかたといった事柄は、大きく変化していくことになるに違いない。

 物事の真実を知りたい、謎を解明したいという欲求は、人間として生まれてきた以上は押さえることのできないものであり、それゆえに人間は自分たちの文明を少しずつ発展させる方向へと導いてきた。だが、ときに真実というものは、人々の考える以上に過酷で容赦のないものであることもある。そう、ごくふつうの日常生活を過ごし、そこに平安を見いだしていこうと考える私たちには、荷が重すぎると感じられるほどに。

 悪いことは悪い人間がするものと、人々は信じたがる。だが悪とはどういうことなのだろうか? 共通の善からはずれたものと定義されるのではないか。さらに善とは? 大多数が善とみなすものとも言えるのではないか?

 今回紹介する本書『死せる少女たちの家』では、まず三人の少女の死体の描写からはじまる。あきらかに常軌を逸したその事件現場に、まるで教会に安置される聖人であるかのごとく飾られていた少女たちは、ニューヨーク州の片隅にある辺鄙な町、オーリリアスの住人であり、そこで次々と行方不明になった少女たちのなれの果てでもあった――本書はそのオーリリアスにあるアルバート・ノックス統合学校で生物学を教えている中年の独身男性「わたし」を語り手として、人口七千人という小さな町で起こった連続少女失踪事件の顛末を書いたものであり、当然のことながらその中心にあるのは、その事件の犯人が誰であり、また何の目的があってそのような事件を引き起こすことになったのか、というミステリーとしての部分であるのだが、本書の大きな特長は、事件を解決に導くべき探偵役となる人間が存在せず、語り手もあくまでその町に暮らしている人間のひとりにすぎない、という立場をとっている点だ。

 それゆえに、彼の語りはけっして連続少女失踪事件にだけに費やされているわけではなく、もっと以前にオーリリアスで起こっていた事件やちょっとした騒ぎにまで目を向けている。信管のない偽物であったとはいえ、学校に爆弾が仕掛けられるという騒ぎ、共産主義者の歴史学教授であるアルジェリア人、ウアリ・チハリの赴任と、それにともなって、数人の彼の信奉者によって結成された読書会「真理研究会」の過激な言動、奔放な性生活で有名で、おそらくオーリリアスの大半の男性と関係をもっていたジャニスの、いまだ未解決の殺人事件、妻を失った新聞記者フランクリンの載せる記事の論調の変化、そして、ジャニスの息子アーロンが過去におこした傷害事件――およそオーリリアスの住人たちのことについては、どんな性格で何を趣味にしており、ペットの有無や住んでいる家の間取、服装の特徴やちょっとしたクセ、さらには過去にどのような子どもであり、どんな騒ぎを起こしたかにいたるまで、まるで自分のことのように詳細にわたって語ることのできる「わたし」の存在は、彼の住むオーリリアスという町がいかに小さく、何かを秘密にしておくにはあまりにもお互いがお互いのことを知りすぎてしまっていることを何よりも雄弁に物語っている。

 町を歩けば必ず何人かの知りあいと出会い、声をかけずにはいられない状況となり、町で起こった事件がたちまちのうちに尾びれのついた噂となって町じゅうの人たちに知れわたることになる――それはアメリカにかぎらず、この日本の地方の町や村についても同じようなことが言えるわけだが、そんなちょっとした共同体のなかで、例の連続少女失踪事件が起こることになる。それも、第二第三の犠牲者が出てくるにしたがって、犯人がオーリリアスの住民であることが疑いようもなくなってくるにいたり、住人たちの不安と恐怖はかつてないほど高まって、次第に人々は町に住む変わり者や余所者に疑心暗鬼の目を向けることになる。そういう意味では、本書の本当の読みどころは連続少女失踪事件の謎ではなく、気心の知れた隣人、住みよい町という幻想が崩れ去ったときに起こる恐るべき集団心理やパニック、そしてそれが引き起こす暴走と悲劇であり、ミステリーというよりはむしろホラー小説であり、またパニック小説という位置づけのほうが本書にはふさわしい。

「彼らは眠っている。これは彼らが自ら選んだ状態だ。彼らは世界を恐れており、眠りは恐怖から逃れるひとつの道だ。いつの日か、彼らも目覚める。たぶん、何か恐ろしいことが起こるだろう。実際、恐るべき事態への誘いとしては、無知ほどふさわしいものはない――」

 本書には探偵役となる人間が存在しない、と私は上述したが、その立場にもっとも近い人間がいるとすれば、それは歴史学教授であるウアリ・チハリだろう。彼は歯に衣を着せぬコミュニストではあるが、常に物事の真実の姿をとらえるような教育を自分にも他人にも強いてきた。そして、事件を解決に導く役目を負った探偵もまた、真実をあきらかにする運命を背負った者である。だが、探偵の存在しない本書では、物語が進むにつれて、まさに人々の恐怖と不安が事件とはまったく関係のない人間をつるしあげにしたり、無実の人間がちょっとしたことで犯人扱いされてしまったりといった暴走が加速度的に広がっていくことになる。それはまさに、チハリが言うとおり「恐るべき事態」だと言える。ことによっては、連続少女失踪事件の真相などよりも、はるかに。

 痛ましい凶悪事件がおこるたびに連呼される「真相究明」の声――だが、それは本当に真実を知りたいという欲求から出てきたものなのだろうか。もしかしたら、犯人に「異常者」というレッテルを貼りつけ、自分たちとはほど遠い人物であることを信じたいだけなのではないだろうか。うわべはごく普通の住人として何気なく生活していながら、じつはその心の奥に怪物を飼っている人間がたしかに存在すること、そして、あるいは自分自身の心にもまた、そのような怪物が住んでいるかもしれないこと――あなたはそれでもなお、真実を知りたいと思うのだろうか。(2005.07.28)

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