【河出書房新社】
『死者の帝国』

伊藤計劃・円城塔著 

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 人の死について考えたとき、それはひとつの区切りなのだということに気づく。むろん、死を迎える当事者にとって死とは人生の終わりであり、自分が死んだあとのことについて認識するすべはない。だが、生きている人にとって、それは明確に境界線を引くべき現象だという認識が、私たちの社会にはたしかに存在する。ある日、ずっと人生を共にしてきた相手が存在しなくなる――残された者は当然のことながら、ふだんいるべき相手がいない、という喪失感をおぼえる。そういう意味で、死者は死んだあとも生者に大きな影響をおよぼしつづけると言っていい。長く離れていた故郷の同窓会で、昔の友人が死んだという話を聞いたとき、自分のなかでその友人の位置づけが曖昧になる――本当に死んだのかどうかの判断がつけられなくなるという体験は、その友人との関係に「死」という境界線を引けないがゆえのものである。

 通夜や葬式、あるいは法事といったものは、死者のためというよりは、生者が死者を「死」の向こう側という手の届かない領域へと追いやり、明確な区切りをつけるための儀式である。そうしなければ、いくら死者が生物学的に死を迎えても、生者のなかでは生死が曖昧なままという混乱が生じることになる。昔の友人の死を明確な「死」として受け止めるためには、墓参りをするなり、仏前で線香をあげるなりといった具体的な手続きが必要なのだ。

 人間にとって、こと生者にとって、「死」とはなかなかにやっかいな現象である。こうしたことを踏まえたうえで、今回紹介する本書『死者の帝国』が織りなす世界を考えるとき、私たち人間にとっての生と死の概念とは何なのか、という命題と対峙せずにはいられなくなる。

「生者と死者を分かつものは何かね、ワトソン君」
 と教授が訊いてきたので、わたしは冷静に答えた。
「はい、霊素の有無です」

 本書プロローグのなかでさりげなくやりとりされる上述の引用文――だが、その対話がほかならぬ医学部の講堂における、授業の一環としてなされているという事実が意味するところははてしなく大きい。それは、人間の死というものが、科学の領域において明確に定義づけられている、ということである。時は19世紀末、フランケンシュタイン博士が世界で初の「被造物」を生み出すというメアリー・シェリーの小説が現実に起こったものとする仮想歴史のなかで、人類は霊素を失った死体に疑似霊素を書き込むことで、死者を労働力として使役する技術を実用化させていた。折りしも産業革命華やかなりし時代に、文句も言わず、賃金も要求せず、危険な労働を黙々とこなす「動く屍」の需要は大きく、拡大する産業を支えるばかりでなく、植民地化政策を推し進めるための軍事力としても、死者は重宝されていた。

 ロンドンの医学部学生であり、本書の名目上の語り手でもあるジョン・H・ワトソンが、イギリスの諜報機関からの依頼で、ロシア帝国から流出したとされる新しい屍者制御技術の行方を追うという本書を評するにおいて、動く死体である屍者の存在を外すことはできない。というよりも、むしろこの屍者の存在こそが、物語の根幹をなすテーマでもあるのだが、死んだ者の体を利用するという、私たちにとっては冒涜的ともいえる概念が、ごくありきたりな新技術としてまかり通っているからには、それなりの背景が必要となってくる。そして、その背景のひとつについては、すでに要点を挙げてある。

 生者と死者とを明確に分ける要素として言及される、霊素の存在――わずかな質量さえともなうという、この「魂」ともいうべき物質が科学的に定義づけられたということは、同時に人間の定義の明確化にもつながる。そしてこのきわめて合理的な概念が、それまであった倫理観にも大きな影響をおよぼしたであろうことは想像に難くない。そう、本書の登場人物たちにとって、死体とは霊素という人間の魂の抜け殻であり、そうである以上ただの物質に過ぎないという認識なのだ。少なくとも、大学の講義の一環として、死者蘇生のプログラムが用意されている程度には、世間のなかで浸透している概念である。

 人間と見た目はそっくりでありながら、生者とは明確に区別される、物言わぬ動く死体が世界各地で使役されている光景は、たとえばそれがロボットやアンドロイドといったSF的要素に置き換えられたとしても、物語としてはさほど違和感がない。じっさい、本書のなかで一人称の語り手であるワトソンをわざわざ「名目上の」と但し書きをつけたのは、じつはワトソンをはじめとする登場人物たちの行動を記す存在としての屍者「フライデー」がそばにいるからであるが、それは文字記述はもちろんのこと、多くの情報をたくわえて必要なときに引き出すというデータベースとしての役割や、異国の言葉を翻訳する機能をそなえた最新式であり、まるで私たちにとってのノートパソコンのような存在であるし、アシモフの「ロボット三原則」ならぬ「フランケンシュタイン三原則」なるものも出てくる。こうした、往年のSFやホラー、ミステリー作品の要素をあちこちにちりばめた物語構成というのも本書の大きな特長のひとつであるが、ワトソンたちの行く先で、まるで人間のようになめらかに動くばかりか、達人のごとき剣さばきを見せる屍者が登場したり、生者の霊素のうえに疑似霊素を上書きするような技術が出てきたりするに到って、はたして今目の前にいる屍者は、本当に疑似霊素を書き込まれた屍者なのか、そもそも動く死体と生者を分けるものは何なのか、という疑問とあらためて直面せざるを得なくなる。

 そして、人類の今の技術ではまだ到達しえない屍者制御技術の裏に見え隠れする、最初の「被造物」たるザ・ワンの存在と、かつて彼を生み出した科学者の残した「ヴィクターの手記」――物語はきわめてドラマチックな流れとなり、またエンターテイメントとしての要素も含まれているのだが、ワトソンたちが物語のなかで明確な目的として追うことになるそれらの要素もまた、人間の生死を根幹から揺るがすものとしての立ち位置を占める。なぜなら、霊素というものが人の目に見えないものである以上、生者と死者を区別するものは、「不気味の谷」、つまり生者の動きに似せようとすればするほど生者とはかけ離れたものとしての認識を強めるという感覚的なものに頼るしかなく、ザ・ワンやそれを生み出した「ヴィクターの手記」は、その認識を覆す可能性を秘めているからだ。

 そのいっぽうで、生者と似てはいるが、ただの道具でしかないがゆえに、ひたすら生者たちの非人道的な行為やはてしなき欲望の対象にされていく、永遠の生を死に続ける屍者――はたして、疑似霊素による屍者制御技術とは、人類の進化の産物なのか、あるいは生者としての人類を滅ぼす悪魔の技術なのか、ということを考えたとき、本書のタイトルにもある『死者の帝国』という言葉の意味が重くのしかかってくることになる。

 屍者と生者が直接的な闘争を開始する世界。それだけでもう行きつく先は明らかだ。生者の数が減るたびに、屍者たちの戦力は増大していく。先へ進めば進むほど勝ち目のなくなる悪質なゲームだ。

 死者を一種の「穢れ」として、生きる者たちの世界と明確な区切りをつけるという概念が、科学技術の歪んだ発達によって断ち切られた世界――神ならぬ身が人造の魂を死体に施すという、フランケンシュタインの構想を壮大な物語として展開させた本書を、ぜひ楽しんでもらいたい。(2012.11.13)

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