【文藝春秋】
『デッドエンドの思い出』

よしもとばなな著 



 人はなぜ誰かに恋をするのか、あるいはなぜ結婚制度というものが人間社会で受け入れられるようになったのか、という、およそ人間の男女間で発生する特別な関係性についての命題が私の心をとらえていたのは、私がその手の小説を読むこと、あるいは書評することを苦手としているというのもあるのだが、それ以上に、私のそれまでの人生においてそうした体験がおそろしく貧弱であることも、大きな要因となっているという自覚がある。

 その人なしではいられないような、身を焦がすような恋をしてみたいという思いがあるいっぽうで、その恋が原因で自分や相手の人生が狂ってしまうのは、なんとも馬鹿馬鹿しいという冷めた思いもある。ひとりでいることに今もなおさほど苦を感じることもなく、人肌が恋しくなるといった感覚もほとんどなく、逆に他人が常に自分のそばにいるという状況がどう考えてもうっとうしいとしか思えない、というのが自分の本音であるのだが、その裏には、もし万が一、誰かに恋するようなことになってしまったら、相手の一挙手一投足が自分に向けられていないと満足しないという極端さで、相手をがんじがらめにしてしまうのではないか、という怖れもある。そしてそれは、自分がこのうえなく自分勝手な性格の持ち主であるという自覚から来ていることも知っている。

 恋愛という、このなんともやっかいな感情については、たとえば麻生一枝の『科学でわかる男と女の心と脳』といった実用書では、その思考や行動原理を「自分の遺伝子をより多く後世に残す」という、動物としてのヒトの観点から論じている。それはある意味で、非常にすっきりする考え方ではあるのだが、同時に、それがあらゆる男女関係に適用されるものでもなく、あくまで平均値を語っているにすぎないのは言うまでもない。恋愛感情をふくめた人と人との関係性は、その関係の数だけの事情があり、それはどれひとつとして同一に語れるものではない。そして何よりも真理なのは、そうした関係性がはじめから意図してなされたわけではない、という点だ。

 本当は、お父さんだって、家族を遺して死にたくなんかなかったし、本当はお母さんだって、私を傷つけたりしたくなかった。本当は私だって、家族でずっと暮らしていたかった。

(『「おかあさーん!」』より)

 今回紹介する本書『デッドエンドの思い出』は、表題作をふくむ五つの短編を収めたものであるが、そこに登場する人たちは、じつはけっこう不幸な目にあっていることが多い。表題作に出てくる語り手の女性は、物語当初は実家を離れ、路地の突き当りにある親戚のお店で居候をしているのだが、地元で生まれ育ち、一度も家から離れたことのない彼女がそんな暮らしをはじめたのは、結婚を約束していたはずの恋人に手ひどく裏切られたショックが原因となっている。そしてその店で雇われ店長をしている西山という青年は、過去に父親に監禁同然の生活をさせられ、栄養失調で死にかけたという経験を子どもの頃にしている。上述の引用元である『「おかあさーん!」』の語り手は、食べていた社員食堂のカレーに毒物を混入されて入院を余儀なくされているし、『ともちゃんの幸せ』に出てくるともちゃんは、レイプ被害者である。

 彼女たちの身に起こったことは、きわめて理不尽で悲しいことだ。だが、それがどれほど不条理なことであっても、一度起こってしまったことをなかったことにすることは、誰にもできない。どんなに心が苦しくても、いつかはそれを受け入れ、起こるべくして起こったひとつの必然として昇華していくしかない。そうしなければ、いつまで経っても前に進んでいくことができず、やがては心を病んでしまうことになる。『デッドエンドの思い出』で語り手の女性が身を寄せるお店は、そのものずばり「袋小路」という名前であるが、何らかの役割を負いつづけなければならない人間社会から一時避難する場所として、これほど象徴的なネーミングも珍しい。

 苦しくて、悲しくて、なぜあんなことになってしまったのだろうかという後悔に深くさいなまれているようなときに、たとえいつかは克服しなければならないにしても、それらを肯定していくには時間とエネルギーが必要となる。本書はそうして傷つき弱った女性たちが、起こってしまった不幸を生きるための力へと変えていく過程を描いた作品という側面が強い。そしてこの場合、彼女たちが出会い、寄り添う形になる男性たちは、恋愛対象というよりも、ただそばにいてあげる、見守っているだけという感覚である。

 男女の出会いをいつでも恋愛と結びつけて考えてしまうのは、ある意味で乱暴なものの見方である。もちろん『幽霊の家』のように、最終的には結婚するという結末を迎える男女もいるのだが、それでも彼らのあいだにあったのは「一緒にいるとなんとなくしっくりくる」という感触であって、けっして「恋愛」と大上段にかまえるようなものではない。それ以前に、恋愛というのはきわめて積極的で前向きな感情であり、意識でもある。少なくとも本書に登場する女性たちは、そうした積極性を保ちつづけられるほどのメンタルがない状態にある。

 『幽霊の家』というタイトルは、語り手の女性といい感じになる岩倉という青年が住む、近々取り壊される予定の古いアパートで、以前一酸化炭素中毒で亡くなったという老夫婦の幽霊から来ている。この老夫婦は、たしかに幽霊ではあるのだが、とくに化けて出てきたというわけでも、誰かに恨みがあるというわけでもなく、あたり前のように生前の生活を淡々とこなしている姿が見えるだけなのだ。死んでもなお習慣のように日々の生活をつづけていくその幽霊の存在は、本書を語るうえで欠かすことのできない、重要な要素のひとつとなっている。

 それは、ちょっとやそっとでは壊れることのない、きわめて安定した人と人との関係性である。かつてはまったくの他人であったはずの男女が、何かの縁でともに人生を過ごすことになり、さまざまな幸福や不幸を共有し、でもそれを乗り越えたうえでの現在を、さもあたり前のように生きている――私たちはともすると、何気ない日常をつまらないもの、退屈なものと思ってしまいがちであるが、じつはそのあたり前の日常がどれほど貴重なもののうえに成り立っているのかを、本書は何よりも雄弁に物語っている。

 それは一見単純な人生だが、実は七つの海を冒険するのに匹敵する巨大な流れに属する何かなのだった。そこには私の死んだおばあちゃんもいるし、岩倉くんの死んだお母さんもいる。そして、あの夫婦もいる。みんなその流れを生きたし、誰もがなんだかんだともがいてはいるがしょせん同じ水の中にいる。

(『幽霊の家』より)

 人生というのは、常にままならないものであり、幸福も不幸もまるで不意打ちのようにやってきては、私たちの心を大きく揺り動かしていく。私たちひとりひとりは無力に等しく、そうしたものに翻弄されるしかない。だが、もしそこに誰かもうひとりいてくれるのであれば、あるいはそのことを受け入れ、生きるための力へと変えることができるかもしれない。そういう意味で、生きることは出会うことでもある。けっして単純に「恋愛」という言葉で還元できないような、人と人との関係が、本書にはたしかに書かれている。(2015.03.31)

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