【早川書房】
『ジェイコブを守るため』

ウィリアム・ランデイ著/東野さやか訳 



 たとえば買い物をしているときに、ある商品を探していてどうしても見つけることができず、店員にどこにあるのかと訊いたところ、自分が何度も通り過ぎていた棚につれていかれた、といった経験はないだろうか。探していた商品はたしかにそこにあり、自分は注意深くその場所に目を向けていたはずなのに、なぜか目に映っていなかった――より正確には、視覚はその商品をとらえていたにもかかわらず、そこにあるかどうかわからないという不確かさによって、あるはずのものを自分の脳が認識できなかった、ということになるのだが、目の前にあるはずのものが見えていないという、およそ信じがたい現象は、じつは私たちにとって身近な出来事のひとつであったりする。

 「真実はかならずしもひとつではない」とか、「事実と真実とは違う」とかいった言い回しを何度か目にしたことがある。私には長くそれらの意味するところが理解できずにいたのだが、最近になって、それは上述の現象のようなことを指すのではないかと思うようになっている。ある場所にある物が存在する。それはたしかな事実ではあるのだが、ある人にとっては強く意識せずにはいられないものであり、別の人にとってはどうでもいいものであるとすると、当然のことながらその事実に対する捉え方は異なってくる。私たちにとって認識の外にあるものは、たとえ目の前にあっても見ることができない。その認識の度合いこそが、人の数だけある「真実」ということになる。

 だが同時に、この考えは私たち人間がまさに絶対的な孤独のなかに閉じ込められている、ということを認めるに等しいものだ。なぜならそれは、私たちが同じ世界を共有できないことを意味するからだ。私たちは、けっきょくのところ自分の見たいと思うものだけしか見ることができず、また信じたいと思うことだけが「真実」となってしまう。本書『ジェイコブを守るため』において、語り手のアンディ・バーバーの一連の言動を追っているうちに、私はいつしかそうした思いにとらわれるようになっていた。はたして物事の真実とは何なのか、と。

 しかしわたしたちは誰もが、自分についての物語を信じているものだ。――(中略)――わたしはと言えば、法廷で物事を正せると思いこみ、勝訴すれば正義がなされると思いこんでいた。誰もがそういう考えに酔うものだが、ジェイコブの事件でのわたしはまさしくそれだった。

 上述の引用にある「ジェイコブの事件」とは、本書のなかで起こった殺人事件のことを指している。マサチューセッツ州ニュートンの、学校に隣接する公園の林のなかで、ひとりの少年が遺体で発見された。胸に三つの刺し傷のあるその状況から他殺であることはあきらかで、警察と地方検事局が捜査に乗り出した結果、事件の容疑者として起訴されたのが、被害者と同じ学校に通う同級生のジェイコブ・バーバーである。本書はおもに、この裁判のなりゆきをメインとして展開していく法廷小説と言うことができるのだが、ここで重要なのは、ジェイコブの父親であり、また本書の語り手であるアンディが地方検事局の検事補という立場にあり、また事件発生当初は彼が責任者として捜査の指揮をとっていたという点である。

 事件の容疑者を犯人として告発する検事という立場にありながら、その身内から事件の容疑者を出してしまったアンディは、当然のことながら今回の事件からははずされることになり、また彼の検事としてのキャリアもその時点で失墜してしまうのだが、もともと出世することにさほど興味をもっていない彼にとって、今回の件で唯一たしかな行動理念があるとすれば、それは「ジェイコブは犯人ではない」という思いである。事件を目撃した証人はなく、凶器も見つからず、ただひとつ、被害者の服に付着していたジェイコブの指紋が有力な証拠としてあがっているのみという状況であり、ジェイコブを犯人として結びつけるには弱いというのが、検事としてのアンディの意見である。

 だが同時に、本書の読み進めていくにつれて、読者はジェイコブが状況的に非常に怪しいことにも気づく。提示される情報によって変化していく証言、彼自身がネットに投稿したという、事件を模した小説の存在、生前の被害者に対して殺意を匂わせる発言、なによりアンディは、ジェイコブの部屋で一本のナイフ――被害者の傷跡ときわめてよく似た形のナイフを発見しているのだが、こうしたジェイコブにとってきわめて不利な事実は、しかし彼の父親であるアンディというフィルター越しでは、事件の犯人へと結びつく証拠として捉えることができずにいる。少なくとも読者としては、そういうふうに見えてしまう。しかもアンディは、そのナイフをひそかに処分さえしてしまうのだ。

 はたして、ジェイコブは本当に殺人事件の犯人なのか、あるいは他に真犯人がいるのか、という点は、たしかに本書の読みどころのひとつではあるのだが、この点にかぎらず、本書にはいくつかの真実について、その真偽を明記せずに読者にゆだねてしまう部分が多々見られるという特長がある。たとえばアンディの「ジェイコブは犯人ではない」という思いについても、ただひたすら息子の無実を信じるという点では美しい親子愛のようにとらえることもできるのだが、いっぽうで彼が裁判について精通しており、たくみに息子にとって不利な状況を回避しようと画策するという点では狡猾であり、私たち読者はアンディにどんな感情移入をすべきなのかをためらってしまうのだ。しかも、アンディの家系には代々犯罪者が名を連ねているという、けっして取り消すことのできない事実があきらかになることで、私たちはますます物事の真実から遠く隔てられてしまう。

 本書の舞台となっているマサチューセッツ州では、殺人事件はその内容いかんに関係なくかならず起訴される、という不文律がある。そして一度起訴されてしまえば、その判決に関係なく関係者の人生は大きく狂わされてしまう。それまで良好だった近所づきあいが途絶え、バーバー一家が孤立していく様子や、法廷で交わされる言葉のやりとりなど、注目すべき点はいくつもあるが、なかでもなんとも言えない救いのなさを感じさせるのは、アンディがジェイコブの無罪を信じ、そのために「地獄を往復したってかまわない」ような奮闘ぶりを見せれば見せるほど、家族間の関係が修復不可能なほど壊れていってしまうという点だ。とくにアンディの妻ローリーが、息子に対してどうしても拭いきれない疑いを抱いてしまうにいたり、アンディのある種の異常性がますます際立っていくことになる。なぜアンディは、これほどまでに息子の無罪を信じきることができるのか? それはあるいは、自分のなかにあるかもしれない暴力的な気質を否定したいがための思いから来るものではないのか、と。

 わが子を素直な目で見るのは無理なことです。そんなことは誰にもできない。深く愛しすぎているし、あまりに身近な存在だからです。息子がいればわかるはずです。息子がいれば。

 繰り返しになるが、本書にはミステリーで言うところの「たったひとつの真実」については書かれていない。だが、人の数だけある「真実」の姿については、これ以上はないというほど明確に書かれている。ジェイコブはジェイコブの、アンディはアンディの、ローリーはローリーの、そしてアンディの父親で今は終身刑を受けているビリーはビリーの「真実」を信じ、それぞれの信じる「正義」を成そうとした。そうした「真実」がぶつかりあい、交錯した結果として、どのような物語が紡がれていくことになるのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2013.11.09)

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