【東京創元社】
『旋舞の千年都市』

イアン・マクドナルド著/下楠昌哉訳 



 人がたったひとりで生きていくには、この世界はあまりにも厳しく、無慈悲だ。それゆえに、人は寄り集まり、互いに協力し合って生きていく術を身につけた。人が集まればおのずとそこに生活するための空間が生まれ、それにともなってそこで生きるためのルールが決められ、またその集団を統率するリーダーが出てくる。そうやって生まれてきたのが集落だ。集落ができれば、そこへ向かうための道ができ、集落から外へ、あるいは外から集落へと人々が行き来するようになる。定住する人の数が大きくなれば、当然のことながら集落の規模も大きくなり、それはいつしか街となり、あるいは都市へと発展していく。ルールはより複雑になり、統治するのはひとりのリーダーではなく、より組織だったものとなる。そしてそこからさまざまな権利が生まれ、利権や不正といったものが横行する。その欲望は、あるいはより多くの人を集めることになるかもしれないし、その結果、既存のルールを打ち破るためのエネルギーとなって人々を突き動かしていくことになるのかもしれない。そして、そうして積み重なっていったものが、その都市の歴史ということになる。

 いわゆる「都市小説」と呼ばれるジャンルの読み物がある。それはたとえば、ベヴァリー・スワーリングの『ニューヨーク』のように、その都市で生きた一族を何代にもわたって追っていったものもあれば、ジョン・マグレガーの『奇跡も語る者がいなければ』のように、その都市に住むさまざまな人たちに焦点をあてた群像劇の形式をとるものもあるが、いずれにしても言えるのは、都市小説はたしかにその都市の物語ではあるが、それは同時に、その都市で生きた人々の物語でもある、ということである。人々が寄り集まることで、はじめてそこに集落が形成されるように、人のいない都市などありえない。そして、ひとつの都市という観点で物事をとらえたとき――都市を、あたかもひとつの人格であるかのように考えたとき、「彼」にとって時間の概念とは、その思索を制限するものではなく、自身を語る要素のひとつにすぎなくなる。私たちの見る夢が、しばしば時間を超越するように、都市の見る夢は時間に束縛されない。都市にとっての過去は、そのまま現在であり、また未来でもありえる。そこに人が生き続ける限りは。

 今回紹介する本書『旋舞の千年都市』の舞台となるのは、二〇二七年のイスタンブールだ。同著者の代表作ともいえる『火星夜想曲』と比べれば、けっして遠い未来というわけではない。EUへの加盟をはたし、次世代エネルギーとなった天然ガスとナノテク産業に沸くトルコ共和国の中心地であるこの都市は、同時にアジアとヨーロッパの境界に位置する都市でもあり、それゆえに昔から東西の文化や人種が入り混じる都市でもある。古き伝統と新しきテクノロジー、古の宗教と時代の先を行くイデオロギー、魔法と科学が混交する、言ってみれば何でもありの魅力溢れる近未来都市を舞台に、六人の登場人物が織り成す群像劇が、本書の骨子である。

「あんたにゃ見つけられないよ。イスタンブールにはあまりに多くの秘密があり、あまりに多くの物語がある」

 上昇気流に乗って旋回するコウノトリの視点からはじまるこの物語の起点になるのは、トラム(路面電車)で起こった自爆テロである。だが、自爆テロにしてはその威力は小さく、テロの実行犯以外には被害者ゼロ。殉死ビデオの撮影もないという、何を目的としたのかわからない奇妙な自爆テロに、まずは積極的に興味をもった人物がふたり。ひとりは弱冠九歳の少年ジャン・デュルカン。心臓に疾患をかかえながらも、少年探偵に憧れる少年であり、玩具でありながら猿や蛇、鼠、鳥などの動物に変化させられるナノボットを操って、今回の自爆テロの不審な点に真っ先に気づいた子どもでもある。もうひとりは、そんな彼の友人として接しているゲオルギオスという名の老人。隠退した経済学者でもあるギリシャ人の彼にとって、自爆テロは賭けのための市場にすぎないものだったが、ジャンのもたらした情報が、後にその真相を導き出す大きなきっかけとなっていく。

 ネジュディト・ハスギュレルは、たまたま自爆テロの起こったトラムに乗り合わせた青年だが、とある事情で兄の所属する教団に匿われている関係上、今回の事件によって警察の事情聴取を受けるのはまずいと考え、早々に事件現場から離れたのはいいが、それ以降、彼は精霊ジンや「緑の聖人」たるフィズルといった存在を幻視するという神秘体験を頻発するようになる。就職活動中の新米マーケッターのレイラ・ギュルタシュリは、今回の自爆テロによって面接先の会社にたどり着くことができなくなったという意味で、立派な被害者であるが、そのおかけで、一族のひとり――彼女にとってははとこにあたる人物が開発中のナノテク技術を売り込むという仕事にありつくことができた。もっとも、そのために一族の家宝たるコーランの半分を探すという厄介ごとに付き合わなければならなくなるのだが……。

 自爆テロとは直接関係ない主要人物もいる。アドナンとアイシェは夫婦であるが、オゼル物産ガス社に勤めるアドナンは、ガス市場に対する一大詐欺を計画中であり、いっぽうのアイシェは、とある人物からの依頼で伝説の蜜漬けミイラ「蜜人」の探索を引き受ける。彼女は細密画などの骨董品を扱う画廊の経営者であり、そんなアイシェにとって「蜜人」は一種のロマンであると同時に、現状を変えるための手段でもあった。

 こうして、犠牲者ゼロの自爆テロという小さな爆発の余波を受けた六人の主要人物が、入れ替わり立ち代わりそれぞれの物語を展開していくのだが、そこには当然のことながら、これらの登場人物たちがどのような形でお互いのストーリーに絡み合い、どのような大きな物語を見せてくれるのか、という期待がある。だが、本書の真の読みどころは、そのストーリー展開ではなく、そうした物語を成立させている舞台そのものだと言うことができる。ナノテクノロジーによって魔法のような技術に溢れていると同時に、「蜜人」といった都市伝説級の代物が現実のものとして同居する、近未来のイスタンブール――かつて、四つの帝国の帝都であったこの都市は、本書においてはさまざまな要素が混在し、その境界がかぎりなく曖昧になった夢幻のような時空間を形成している。

 本書を読んでいくとわかってくることであるが、この物語はたんに六人の主要人物の視点が入り混じるだけでなく、その時系列すらも過去と現在を自在に行き来するような構成となっている。現実にはたった五日間の物語ではあるのだが、それ以上の奥行きと時間の経過を感じさせる要因の一端は、そこにこそある。さらに言えば、本書の視点はしばしば人間の視点を超えていくことがある。それを象徴するのが、冒頭におけるコウノトリの視点であるが、それにかぎらず、本書ではイスタンブールの街や雰囲気、人々の賑わいといったものに幾たびも焦点が向けられる。そしてそのたびに、本書の舞台であるイスタンブールの、古さと新しさの共存する世界に幻惑させられてしまう。

 たとえば、ゲオルギオスやジャンの家族、あるいはネジュディトを匿う教団たちが住処としているアパートは、僧院を改築したもので、数百年の歴史をもつ建造物だったりする。そして、そんな元僧院の近くに、イコンや聖具を商売道具にしているある意味で冒涜的なアイシェの画廊があったりする。伝統的な宗教の戒律に厳密であろうとする人たちと、そんな宗教道具の美術的美しさを愛しながらも、生きていくための糧にしようとするしたたかな人たちという対立構造は、まさに古さと新しさ、伝統と最先端科学がひとつの空間に同居するイスタンブールならではのものであり、そこには、そうした世界で生きる人たちの力強い生の脈動がある。六人の主要人物のあいだには、まさにそうした対立構造が、さまざまなベクトルで見出すことができるのだ。そしてその対立構造は、奇妙な自爆テロの真相とも大きく絡んでいる。

 世のなかというものは、常に変化していくものではある。逆にいえば、変化しつづけていかなければ、進歩もありえない。しかし、物理法則である「慣性の法則」は、物理現象だけでなく人の心にも言えることだ。人には、現状を維持したいという心理がある。そのいっぽうで、現状を変えたいという心理もあわせ持っている。そして、いったん動き出した変化は、逆に留め置くことが難しくなる。そんな人間の静と動を長きにわたって見守りつづけた、ひとつの都市の物語をぜひ堪能してもらいたい。(2015.01.15)

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