【中央公論新社】
『大浴女[水浴する女たち]』

鉄凝(ティエ・ニン)著/飯塚容訳 



 幸せになりたい、夢を実現させたいという思いは、人としてごく自然な願いのひとつにすぎないが、その幸福や夢の内容は人それぞれであるし、それを現実のものとするためにとるべき行動も、やはり人それぞれである。そしてその行動の結果として、自分の思うものを得られるかどうかは、誰にもわからない。その行動は正しいものかもしれないし、間違ったものであるかもしれない。ただ言えるのは、幸せをつかむために起こした行動にともなう責任は、すべてその人にのみある、ということだ。

 それは、あたり前といえばあまりにもあたり前のことであるが、もしこの事実をあたり前だと感じて疑わない方がいるとすれば、それはその人が、何かを選びとる自由に満ちた生活を送っている、ということになる。幸せになりたいという願いがあるにもかかわらず、その幸せを得る自由がない、何より自分が生きるだけで精一杯で、それ以外の選択肢を選べない状況というのが、この世には往々にして存在する。幸福や夢というのは常に叶うわけではなく、またどれだけ頑張って努力しても手が届かないこともあるが、それでもその人には、幸福や夢を追いかける自由があった。幸福や夢というのは、言ってしまえばその人の欲望の形のひとつであり、それは時として醜く歪んだ姿をともなうこともあるが、そこにはまぎれもない人間としての、善も悪も内包した生き方がある。そういう意味で、人としての自由が大きく妨げられる社会というのは、恐ろしくつまらない、そして残酷な世界だ。

 本書『大浴女[水浴する女たち]』は、文化大革命という吊の抑圧と弾圧の時代と、その後の思想解放の時代という、現代中国の歴史においておそらくもっとも大きく揺れ動いた、極端な時代を生きた女性たちの物語である。主人公の尹小跳は、もうすぐ四十に手が届く女性で、現在福安にある児童出版社の副社長という地位にいる。彼女には、どうやら陳在という恋人がいるらしいのだが、ひとりきりの部屋で取り出した手紙は、どうやら過去に別の男から届いたラブレターのようだ。そしてそこから、彼女の心は彼女自身の過去へと一気に跳躍していく。

 尹小跳が過去の記憶を振り返るという形で物語が進んでいく本書であるが、そこにあるのは、二律背反の感情によってまっぷたつに引き裂かれ、戸惑いと狼狽をかかえながらも懸命に生きている女性たちの姿である。そのもっとも典型的な形が、彼女の末の妹であった尹小?の死のなかに象徴されている。尹小?は、小跳がまだ幼かった頃、わずか二歳でこの世からいなくなってしまった。蓋の開いたままのマンホールに、誤って落ちてしまったのだ。そのとき、小跳はその危険な状況をすべて認識していながら、あえて何の行動もとらなかった。結果として小跳は、末の妹を見殺しにしたことになるのだが、彼女にとって小?は自分たちの家族全体をおびやかしかねない、憎しみの対象となっていた。

 誰もはっきりと口にすることはなかったが、尹小?は小跳の母親章?と、彼女の浮気相手である医者とのあいだにできた娘であることを誰もが察していた。北京から福安に転居してから、娘たちのことに興味を失い、上倫関係を重ねていた母親――彼女は病気療養ということで労働をまぬがれていたが、その背景には浮気相手の医者と肉体関係をもつことで、嘘の診断書を書いてもらうというきわめてダークで暗黙的な契約が成立していたのだが、そもそも小跳たちの家族が福安に転居させられたのは、文化大革命の影響があった。若き技師であった父親は、毛沢東の思い描く新北京都市計画に異を唱え、懲罰の意味合いをこめて地方都市の建築設計院に転属させられた。そこでの厳しい労働と学習の毎日に耐えられるほど、章?の心は頑丈ではなかったのだ。

 本書に登場する女性たちは、いずれも自分の望む形の幸福を手に入れるために、ひたむきなまでの意思を押し通して突き進んでいく者たちばかりである。文化大革命の時代を生きた章?にしろ、思想解放の時代を生きた小跳の親友である唐菲にしろ、選択の自由すらないような状況において、文字どおり体を張って進むべき道をこじ開けようとした女性であり、その貪欲な生き様は醜いいっぽうで、これ以上はないというくらいたくましく、人間らしいものでもある。だが、彼女たちの脳裏には、常に事故死した尹小?の存在があった。文化大革命と思想解放の二律背反の時代のはざまで、理上尽この上ない死に向かってまっしぐらに突き進むしかなかった末の妹――このじつに象徴的な出来事は、彼女と何らかのかかわりをもつことになったすべての人間の心にその影を落とすことになる。そしてその二律背反ゆえに、彼女たちは自由でありながら束縛され、楽しみを得ながらも同時に苦しみを享受しなければならなくなった。

 意図的に危険を黙殺することで、間接的にではあれ小?の死に加担することになった小跳は、その二律背反の影響をもっとも強く受けることになった人物である。彼女もまた何人かの男性との逢瀬を重ねることになるが、そこにあるのは他の女性たち同様、自分にとっての幸福の形である真実の愛を求めていく強い欲求である。だが、その結果はけっしてかんばしいものではない。映画監督の方兢、北京大学の留学生であるアメリカ人のマイク、そして幼なじみの陳在――誰かを愛するという自身の強い想いが、逆に重荷であるかのような小跳の恋愛遍歴は、それゆえにひりひりするような感情に満ちている。それは、かつて尹小?に対して抱いていた感情にも似たものがあると言える。家族の関係を根本的に壊しかねない、憎むべき存在でありながら、たしかに自分と同じ血をひく姉妹であることから生まれる親しみの感情――本書はたしかに恋愛小説としての要素が強い作品ではあるが、それ以上に彼女がかかえこんだ二律背反にどのような決着をつけるのかを描いた作品であり、そこには文化大革命と思想解放の二律背反の時代をどのようにとらえ、昇華させていくべきなのか、という時代がかかえる問題をもふくんでいる。

 理由のない善良さや寛容さはあり得ない。それは夢物語だ。贖罪の心理があってこそ、人類に対しても自分に対しても並外れた忍耐力が生まれる。方兢に捨てられたとき、彼女は事務室に引きこもって引き出しに涙を落としたが、悲しみが極まるとむしろ気持ちが楽になった。

 晩年になって急に整形をはじめた母親、そんな妻といさかいの絶えない父親、姉の好きになった男性ばかりを好きになり、横取りしてしまう小帆など、血縁どおしのいさかいが生々しさを見せることの多い本書であるが、幸福を求めながらもそれが手に入るのを逆に怖れているような二律背反の感情が、はたして小跳をどこに向かわせることになるのか、ぜひとも注目してもらいたい。(2007.06.25)

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