【角川書店】
『ダ・ヴィンチ・コード』

ダン・ブラウン著/越前敏弥訳 

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 私はキリスト教についてけっして明るいわけではないが、それでもキリスト教会というものが、いつの時代においても、そしてどのような教派においても、女性は男性よりも劣った性、男性によって従属される性と見なしていること、そしてその根拠として、創世記におけるアダムとイヴの話をはじめとする、聖書の記述のなかにその正当性を導き出そうとしている事実は知っている。もちろん、そこには聖書の記述をどのように解釈するかの問題もふくまれており、男性優位主義者たちの歪曲によるものも多いだろうことは想像に難くないし、またそうした偏った啓蒙に対して懐疑的、批判的な意見が出てきたとしてもおかしなことではないと思っている。そして、こうした解釈の判断材料となっている聖書――キリスト教会における唯一無二の正典に対して、どれだけ正確な事実を伝えているのか、あるいはどれだけそれを編纂した者の歪曲が混じっているか、と疑問の目を向ける者たちがいたとしても、その行為をけっしてとがめることはできない。なぜなら、物事の真実を探求すること、誰も知らない秘密や謎を解き明かすことは、何事につけ考えをめぐらせ、未知のものを自分のうちに取り込もうとする人間の、抗えない欲望のひとつであるからだ。

 謎や秘められた真実は、難解で壮大なものであればあるほどその知的好奇心を刺激する。だからこそ、あまりにも有名な歴史的事実のなかに、なんらかの理由でその表舞台から消されてしまった事実を探り出すという行為に人々は惹かれる。一時期話題になった「死海文書」なるものも、某アニメの影響ばかりでなく、それが旧約聖書の一部である「イザヤ書」の最古のものであり、より真実に近い記述があると期待されたからであるし、かりにその歴史学的信憑性はともかくとして、隆慶一郎の『影武者徳川家康』にしろ、鯨統一郎の『邪馬台国はどこですか?』にしろ、あるいはマイクル・コーディの『イエスの遺伝子』にしろ、その底辺にあるものはすべて同じである。

 これは断言してもいいが、本書『ダ・ヴィンチ・コード』が書かれることになった原点は、そのタイトルにもあるレオナルド・ダ・ヴィンチの描いた「最後の晩餐」のなかにある。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会にある壁画で、聖書の一場面、キリストが十二人の弟子たちに、このなかに裏切り者がいると語ったときの様子を描いている、あまりにも有名なその絵に対する私たちの一般知識をくつがえす驚くべき事実――ただし、その事実が明かされるのは、本書の物語の中盤に差しかかった頃である。逆に言えばその事実、そしてそこから導き出されるひとつの推論を読者に抵抗なく受け入れてもらうためだけに、本書の前半部が費やされたと言ってもいい。

 パリでの講演を終えてホテルにいたハーヴァード大学宗教象徴学教授ロバート・ラングドンは、夜遅くに司法警察中央局の訪問を受けた。ルーヴル美術館館長のジャック・ソニエールが、異様ともいうべき形で殺害され、象徴学に詳しい彼の力を借りたいという。その日、ラングドンはソニエールと会う約束をしていたものの、その公演ではついに会うことができずにいたのだ。そして、ラングドンがその現場であるルーヴル美術館で見たものは、ソニエールが自身の体を使って描いた「ウィトルウィウス的人体図」だった……。

「ウィトルウィウス的人体図」とは何かという説明は本書に譲るとして、本書にはじつにさまざまな象徴や図像が登場する。五芒星、フィボナッチ数列、黄金比、正十字、百合の紋章――物語は、ソニエールの孫娘でフランス司法警察の暗号解読官でもあるソフィーから、ソニエールの奇怪なタイイング・メッセージの意図するところを知らされたラングドンが、彼を犯人だと断定した警察と、その真犯人の背後にいる巨大な組織の手を逃れつつ、ソニエールがなんとしても誰かに伝えなければならなかった、あるとんでもない秘密――聖杯の正体と、その在り処を求めて奮闘するという展開を見せる。

 はたして、聖杯とは何なのか。そして聖杯を手に入れた者が得るという、とてつもない力とは? 象徴学者と暗号解読官が、そのあらんかぎりの知恵をしぼって、ソニエールが残していった難題を次々と解いていく様子は、さながらオリエンテーリングを彷彿とさせるものがあるが、象徴学と暗号学、さらにはシオン修道会やテンプル騎士団、キリスト教会の裏の歴史、ダ・ヴィンチをはじめとする古今のすぐれた芸術家たちに対する圧倒的な知識の洪水によって、そのオリエンテーリングは高度に知的で、そしてスリリングな雰囲気をその身にただよわせることになる。この有無を言わせない圧倒的な見せ方は、まるで映画「インディー・ジョーンズ 失われた聖櫃」における謎の見せ方――何の前準備もなく机の上にドカンと分厚い本を載せ、おもむろにページを開いてみせるシーンを思い出させるものがある。

 以前紹介したジェフリー・ディーヴァーの『ボーン・コレクター』を読んだときも、いかにも映像向けの物語だと思ったものだが、本書はそれ以上に映像的なものを意識している。物語のなかに唐突に挿入される回想シーンや、頻繁な視点の切り替え、歴史的建造物や芸術作品に対する過剰な描写、いかにも思わせぶりな謎の引っ張り方など、要素はいくつも見つけることができる。逆にいえば、そうした映像的要素にこだわるあまり、物語全部をとおしてたった一日強というごく短い時間の出来事であるにもかかわらず、どこか妙に冗長な感じを受けるのもたしかであるが、本書が提示する謎の大きさはその欠点をおぎなってあまりある――ともすると本当に世界規模でそれまでの常識がひっくり返りかねないほどのものであることは間違いない。

 これ以上本書のことを語るとネタバレになりかねないのでもうやめておくが、最後に、本書の大きな特長としてある「二重性」について触れておく。たとえば、ソニエールの残したダイイング・メッセージは必ず二重の意味を内包しており、そのことがあきらかになるたびに少なからず驚かされたものであるが、本書にはそれだけでなく、シオン教会とキリスト教原理主義ともいうべきオプス・デイという二重性、またある登場人物の表の顔とは別に、隠されている裏の顔という二重性、さらには本書の謎の根幹をなす男と女という二重性など、いたるところにその仕掛けがほどこされている。そして物語自体もまた、聖杯の謎を追うという流れのほかに、ソフィーの過去とその家系に秘められた謎を追うという二重性が秘められており、常に「一粒で二度おいしい」物語として完成している。このあたりの構成の緻密さに、ぜひとも注目して読んでもらいたい。(2005.02.28)

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