【講談社】
『奪取』

真保裕一著 



 例えば、海の藻屑と消えた海賊船に積まれていた莫大な財宝、例えば、うっそうと生い茂るジャングルの奥深くに人知れずたたずんでいる謎の神殿、例えば、地中深く埋もれたまま今もなお光なき世界で眠りつづける古代の遺跡――人跡未踏の領域に足を踏み入れ、誰も知らない秘密を発見し、一生かかっても使い切れないほどの富を手に入れる、というのは冒険小説の王道とも言えるシチュエーションであるが、それはあくまでフィクションの話。厳しい現実にふと目を転じれば、もはや地球上のあらゆる場所は探検しつくされ、遺跡は掘りつくされたあげく、でっちあげまで起こる有様、ましてや人知れず眠っている金銀財宝にいたっては、「そんなものは夢物語だ」と一笑に付されてしまうのがオチだ。

 では、私たちの生きるこの現代に、現実問題として冒険やロマンといったものは、もう完全に消滅してしまったのだろうか。血沸き肉踊るスリルや、一攫千金の夢、胸の高鳴るような興奮をもたらしてくれる謎や秘密はもはや過去の遺物で、今の世にはもはや存在しないというのだろうか。

 真保裕一という作家は、普段私たちが何気なく接している、ごくあたり前の物事に対して、それまでとはまったく異なった角度からアプローチをかけ、そこから私たちが想像もしないような大きな物語を引き出す才能の持ち主である。そんな著者が本書『奪取』で目をつけたのが、「紙幣」である。

 本書の主人公である手塚道郎は、自動販売機の小細工や変造テレカづくりといった、主に機械を相手にした詐欺行為を得意とする、良く言えば頭脳犯、悪く言えばメカオタクである。人間を相手にするのとは異なり、機械はけっして予想外の反応を返してくることはない。つまり、その構造さえ把握してしまえば、機械を意図的に誤動作させてちょっとした儲けをせしめることなど、彼にとっては朝飯前のことなのだ。そんな道郎が、銀行のATM――現金自動預払機に取り付けてある高性能の紙幣識別機を相手に知恵比べをすることになったのは、彼の相棒である西嶋雅人がこしらえてしまった借金を返済する、という目的があった。運の悪いことに、雅人が手を出した借金は、暴力団が関係している街金融の金だったのだ。その額、一千二百六十万円。返済期限は一週間。
 もし借金が返せなければ、ヤクの運び屋としての無残な最期を迎えなければならない――道郎は、自分の機械に関する知識を総動員して、銀行から大金をだましとるための偽札作りに着手する。だがこれが、それから五年にもおよぶ長い挑戦への第一歩になろうとは、そのときのふたりには知るよしもなかった……。

 普段、私たちが何気なく使用している紙幣――だがよくよく考えてみれば、その作り方さえわかってしまえば、本物そっくりの紙幣をつくることが可能なのだ。いや、機械はもちろん、誰の目にも偽札だとわからなければ、それはすでに偽札ではなくなる。誰も損をせず、誰一人傷つけることのない、完璧な偽札づくり、という大きな野望は、暴力や破壊行為によって金を得るという、誰にでもできる単純な犯罪を嫌悪し、あくまで自分の知恵と技術を駆使して、みんなが粛々としたがっているシステムの盲点をつき、世間の鼻をあかしてやりたいと日頃から考えていた道郎たちにとっては、この上もないロマンを感じさせるものだった。そう、冒険やロマンは、何も人跡未踏の地にだけあるわけではない。あまりにあたり前すぎて誰も目を向けようとはしない紙切れ一枚の中にだって、ちゃんと存在するのだ。その事実を思い知らせてくれる本書の着眼点は、まさに賞賛に値するものだと言ってもいいだろう。

 江戸川乱歩賞を受賞した著者の処女作『連鎖』のときにもそうだったが、本書においても紙幣の印刷や紙製造、紙幣を識別するシステムのことなど、圧倒的な知識を総動員して、物語に現実味を持たせるという著者お得意の手法は健在だ。たとえば、紙幣には「すかし」という技術が使われていること程度は誰でも知っていると思うが、そのすかしが黒すかしと白すかしの二種類を組み合わせたものであることはご存知だろうか? 福沢諭吉の肖像画の目の辺りに引かれた皺が、一ミリのなかに十一本もの細密線を引くという深凹版技術の粋を結集したものであることは? あるいは、日銀総裁印の下にある波模様が、右から左へ向かうにしたがって紫から淡いピンクに変化する、レインボー印刷という特殊な技術を使ったものである、ということは? 紙そのものにも、耐久性を増すためにさまざまな工夫がほどこされており、日本の紙幣はそう簡単に偽造できない、まさに大蔵省の意地と面子をかけた最新技術の最高峰なのだということが、本書を読むとよくわかる。読者はきっと、一度は自分の財布を紐解き、紙幣にじっくりと目を通すという衝動を押さえることができなくなるだろう。

 しかも、その驚くほど詳細にわたって調べられた知識が単なる知識の披露だけで終わることはけっしてなく、最初は銀行のATMの目をあざむくだけの目的で偽札をつくっていた道郎たち――どこにも行き場をなくし、深夜のゲーセンでひとり黙々とゲームをつづける子供だった彼らが、さまざまな紆余曲折を経て、かつて偽札づくりに手を染めたことのある「彫りの鉄」こと水田鉱一や、その偽札づくりのために命を奪われた彼の仲間のひとり娘である、自称「スキャナーの妖精」竹花幸緒といった人たちと出会い、彼らの偽札づくりへの情熱に触発されるようにして自分の哲学を確立し、完璧な偽札づくりを目指すようになる過程をうまく盛り込んだ、言わば成長小説としても完成度の高い作品として仕上がっている。さらに言うなら、道郎たちとたえず敵対関係を持つことになる東建ファイナンスのヤクザたち、そして彼らを裏で動かしている帝都銀行の幹部たちの存在も、けっして忘れてはならないだろう。道郎たちが嫌悪する、金のためなら人殺しも辞さない敵役としての彼らの存在があるからこそ、合わせ鏡のように道郎たちの偽札づくりへの情熱は、犯罪行為でありながら読者に一種の清々しさを感じさせ、道郎たちがヤクザたちを知恵と技術の力で翻弄する様子は読んでいて非常に心地よいものとなる。

 人をだますこと――それはたしかに悪いことだ。偽証罪という立派な犯罪である。だが、あまりに完璧な嘘が、それが嘘だと相手に気づかせない嘘が、その瞬間から嘘ではなくなるように、ひとつの道を極めることが犯罪うんぬんという枠組みを越えてしまうことがあることを、本書は教えてくれる。道郎に新しい戸籍を売った光井という老人の口を通して、道郎は水田鉱一がかつて語った、人をだますのに大切な「光を見ることができる目」のことを聞く。

「そう、素人は、光をただ明るくまぶしいもんだとしか思わないことが多い。けど、ほれ、分解すりゃあ、光だって七つの虹の色からできてるだろ。相手、小道具、時間、場所、手順、仲間、そして自分。その七つの要素の重なり具合を見分けられるやつだけが、成功を握るんだと、な」

 はたして、通貨という経済の根幹をなすシステムに対する、一世一大の大博打は成功するのだろうか? さまざまな想いとともに刷りあがった偽札は、はたして本物であることを越えられるのか? 犯罪行為を男のロマンにまで昇華することに成功した本書の興奮を、ぜひとも味わってもらいたい。(2000.12.06)

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