【講談社】
『大剣豪』

清水義範著 



 大学時代の友人のひとりに、ふつうの人なら気にもとめないような点に妙に鋭いヤツがいて、たとえば当時放送されていたNHKの大河ドラマについて、「合戦の最中なのに足軽の鎧とかあんな綺麗なのは変だ」とか言っていたのをよく覚えている。私はどちらかというと物語のほうにのめり込むタイプで、そんな細かいところにまで注目したこともなかったのだが、そうした人とは異なった視点で物事をとらえることができるその友人のある種の才能は、凡庸なものの見方しかできない私にとってはちょっとうらやましいものでもあった。

 人が注目しないようなところにあえて注目する、というのは、前回紹介した同著者の『蕎麦ときしめん』でも指摘したことであるが、今回紹介する本書『大剣豪』でも、その才能はいかんなく発揮されている。表題作を含む10の作品を収めた短編集のうち、たとえば次から次へとより強い剣豪が登場していくという「剣豪インフレ」が笑いを誘う表題作の『大剣豪』や、「水戸黄門」「遠山の金さん」などテレビの時代劇でおなじみのスターを思わせる登場人物が勢ぞろいして悪を懲らしめるという『大江戸花見侍』といった、あきらかにパロディーとわかる作品もあり、それはそれでおおいに楽しめる内容ではあるが、今回私の目を惹いたのは、それらとは多少趣きの異なるいくつかの短編である。

 たとえば『山から都へ来た将軍』は、平安末期に平家討伐に名乗りを挙げた木曾義仲を主人公にした歴史小説であるが、頭は悪く、難しいことはよくわからないが、性根はやさしくまっすぐな心をもつ豪傑であるがゆえに、請われるままに平家討伐を行ない、しかし都の政治にはまったく疎いがゆえにその評判を落とし、最後には助けたはずの朝廷に討たれてしまうという悲劇仕立ての物語として書かれている。

 本書の解説を読んでわかったことであるが、この木曾義仲という人物は戦上手な豪傑ではあったものの、粗暴で都の治安をことさら混乱させた悪者というのが通説になっているらしい。だが、著者はその粗暴な歴史上の人物に対して、通説とは異なる人物像を描いてみせる。それは、通常の視点とは異なるものの見方をもつ、ある意味ではひねくれた視点をもつ著者の得意とする手法ではあるが、そこにはひとつの事柄について、いろんな角度から光を当てることによって、本来あったはずの人間性を回復させていこうとするやさしさと結びついている。

 そうした著者の姿勢は、『どえりゃあ婿さ』や『山内一豊の隣人』といった作品のなかによりいっそう感じることができる。『どえりゃあ婿さ』では木下籐吉郎、後の豊臣秀吉に娘のねねを嫁がせた父親が、娘婿のたどることになるどえらい出世街道にただただ驚いているという作品であり、『山内一豊の隣人』は、そのタイトルにあるように山内一豊の隣人、彼をライバル視する武士に焦点をあてている。いずれも歴史上の人物を直接書くのではなく、その周囲にいた、しかしその影響を良かれ悪しかれ受けてしまい、おかしな方向に人生が転がってしまった者たちの悲喜こもごもを書いたものだ。とくに『山内一豊の隣人』の船戸持義の場合、才覚も野望も強く持ち合わせているにもかかわらず、愛妻家でとくに深い考えをもっているように見えない凡庸な山内一豊の、その出世のスピードを追いつかず、最後には決定的な失策をしでかしてしまうというなんとも皮肉のきいた内容であるが、歴史上においては名前さえ残らなかった人物にあえて焦点をあてることで、いっぷう変わった――しかしいかにも著者らしい歴史短編小説ができあがっている。

 才能のある者が、かならずしも人生で大きな成功をおさめるわけではない、という事実――私たちはともすると、その人物が何を成したのかですべてを評してしまいそうになるし、それが人間社会での現実であることも知っているが、著者のもつ視点、とくに歴史への視点は、ともすると取りこぼされ、忘れられてしまいがちなものをひょいと拾い上げるところがある。『尾張はつもの』は、享保の改革で幕府の財政を立て直した江戸八代将軍吉宗の制度に真っ向から反抗し、あげく御三家の身でありながら蟄居を言い渡されて失脚した尾張藩主、徳川宗春のことを書いた作品であるが、派手を好み、都の洗練さを愛した彼の政策を、たんに吉宗の改革への反抗、消費を美徳とする悪いものではなく、消費を奨励することで貨幣を流通させ、景気を活性化させるという政策としてとらえたとき、彼の考えは現代の経済においてはまことに的を射たものであることが見えてくる。そしてそのとき、私たち読者は、才知がありながら時代や運にめぐまれず、それゆえに悪者にされてしまった人たちの別の一面を垣間見ることになる。

 むこうは、ただ単に、とんでもない背のびをして不つりあいな馬を買ったというだけのことである。戦の武功では負けてはいない。――(中略)――そんなことがあっていいものか、と吉右衛門は思う。女房のへそくりが元で、夫が出世するなどというバカな話があるだろうか。(『山内一豊の隣人』より)

 長寿番組とも言えるテレビ時代劇『水戸黄門』において、葵の紋章の入った印籠は、提示した瞬間に、たとえどのような悪者であっても問答無用で殺陣を終わらせ、恐れ入らせてしまうというある意味で究極のアイテムである。むろん、印籠そのものにそのような力があるわけではなく、「前の副将軍」という立場にこそその威光があるわけであるが、昔の『水戸黄門』では、印籠を見せられ悪事を暴き立てられながらも、なお「もはやこれまで」とばかりに光圀を亡き者にしようと最後の足掻きを見せる悪役がいたものだ。今ではすっかり見かけなくなった展開だが、けっして通り一遍に動かされるわけではない人間の気骨というものが、まだひとつの可能性としてとらえられていた、と考えるのは深読みのしすぎだろうか。著者の書く時代小説は、たんなるパロディーというだけでなく、人を人としてとらえようとするやさしさに満ちている。(2009.06.22)。

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