【講談社】
『台所のおと』

幸田文著 



 一度は別れてしまった恋人たちが、ふたたび出会うまでの物語を、同じ時系列で男の側と女の側からそれぞれに描いた『冷静と情熱のあいだ』は、男の物語(Blu)を辻仁成が、女の物語(Rosso)を江國香織が書くことで、はからずも男女のものの考え方の相違というものを浮きぼりにしてしまった興味深い作品である。私がこの2作品を読んでつくづく思ったのは、男というのは常に、自分の中で自らの行動の理屈づけをしようとし、またそうしないかぎりいつまでもその過去をひきずりつづける生き物なのだ、ということだった。それに比べて、この作品の女性側のほうは、過去を振り返ろうとはしない。ふとした瞬間に過去へと意識が向かうことはあっても、常に理屈ぬきで現在という時間を見据えて生きようとしている、という印象があった。

 女性の強さ、というものをふと考える。もちろん、物理的な腕力、暴力という点では、女性は男性にはかなわない。だが、たとえば逆境に立たされたときの精神的な底力、あるいは出産という一大イベントを乗り越えるだけの粘り強い体力など、まるで竹や柳のようにしなやかで、悪く言えばしたたかな、良く言えば芯のとおった強さという点では、女性は男性を凌駕している。ホームページひとつとってみても、その理論を確立したのは男かもしれないが、自らホームページをつくり、それを何年も持続させることができているのは、男よりもむしろ女の管理者のほうではないか、と思うのだ。

 本書『台所のおと』は、表題作をふくむいくつかの短編で構成される作品集であるが、これらの作品のひとつの特長としてあるのは、女性だからこその芯の強さ――男がふだん自慢の種にしている力強さや、理路整然とした論理構成の力ではなく、自分以外の誰かが病気になったり、家が零落したり、あるいは不如意に落胆するようなときに、そうしたすべてのものを理屈なしに受け入れ、それでもなお、なんとか生きていこうと行動してみせる女性たちの、体の内からひかり輝くような強さである。

 たとえば、表題作『台所のおと』では、小さな料理屋を営む夫婦のうち、夫である佐吉が重い病気にかかり、妻のあきは、その病気のことを夫に告げることもできないまま、夫の看病と店の切り盛りをこなさなければならないという、肉体的にも精神的にも苦しい立場に追いやられてしまう。だが、こうした重苦しい覚悟を強いられている孤独なあきは、そんな自身の状態について、不思議な昂揚感をおぼえている。

 だがまた、これはどういうことだろう。愛情をみつめれば心はひそまるものを、重病に眼をむければ、ひそまっていた心は忽ちたかぶり緊張し、気持ちに準じて手足も身ごなしも、きびきびと早い動作になろうとする。そしてそれはなかなかに悪くない感じなのだった。

 今ではおそらく、一流の女性作家であり、まさに「文豪」のひとりとして数えられるであろう幸田文の生きた時代は、けっして今ほど女性に自由が許されていたわけではあるまい。おそらく、今以上に男性優位がまかりとおっていた社会のなかで、結婚や育児といったさまざまなものに束縛されて生きていかなければならない女性たちは、それでもその束縛する対象である夫や息子などの「男」、しぜん、自身が寄りそう形となる強い「男」たちが、不意にその強さを損なったときにこそ、自らの真価を発揮できる、いわば「縁の下の力持ち」的な立場にあったということでもある。

 本書の短編のなかには、こうした病気や没落の話が多く、『食欲』では世間知らずの夫が病気になり、何かと文句が多くわがままな夫のために資金繰りに奔走する女性の話だし、『草履』は病気の息子を看病する母親が、同じく資金繰りに苦労させられる話、『呼ばれる』でも息子が大手術で一命はとりとめるものの盲目となり、けっして先行きが明るいわけでないうえに、一本気な性格ですぐにどなりちらす夫にも神経を使う女性が出てくるし、『祝辞』では、結婚した夫の経営する会社が破産してしまう、という憂き目を見る。傍目で見ていると、神経がまいったりはしないのか、と心配になるほどの逆境にあって、しかしそれでも女性たちは、強く、したたかに生きていく。たとえ、そのときの自分がひかり輝いていて、その光を自身では見ることも、またその姿を楽しむこともできなかったとしても、その生き方はたしかに、女性だけがもちえる強さである。

 そして、こうした理屈ではない女性の芯の強さは、そのまま著者の文体にも表われている。著者の文体はある意味、正規の日本語の文法からはずれた使われ方がされているところがあるのだが、不思議なことに、その文体の崩れが不快ではない。むしろ、印象的な擬態語や、簡潔で短い文章をリズムよくつなげていくようなその文体は、それまでの日本語文法の決まりを越えたところで、その本質を見事に表現している心地よさが感じられるのだ。『台所のおと』に頻繁に出てくる、さまざまな音の表現は秀逸のひと言に尽きるのだが、私がもっとも印象的だったのは、『祝辞』のなかにある「二年して男の子を生んだ」という一文だ。結婚した女性が中心の作品であるから、当然といえば当然なのだろうが、子どもが「生まれる」ではなく、子どもを「生む」と表現するところに、私はつくづく本書が女性の文章なのだと感じるのである。そして、著者はこうして文章を生み出しているときが、あるいはもっとも自由な時間だったのではないか、とも。

 最近よく聞くのは「女性が強くなった」という文句であるが、べつに最近になって女性が強くなったわけではなくて、もともと女性は強い生き物だったのだ。男だって、最近になってひ弱になったわけではなくて、もともといろいろと理屈づけをして、自分の行為を正統化していかなければ脆くも壊れてしまう心を持った、弱い生き物だった。男と女がひとつになること――結婚とか、そうした社会制度のことについてけっして詳しいわけではないが、本書の世界のように、以前は釣り合いがとれていたものが、今ではどこか壊れつつあるのかもしれない、と本書を読んで、ふとそんなことを考えたりする。そういう意味では、本書は今はもう失われつつあるものを表現した作品だとも言えるのではないだろうか。(2002.12.01)

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