【新評論】
『駄菓子屋楽校』

松田道雄著 



 時代は今、空前のレトロブームである。

 音楽業界では平井堅が昔の童謡である「大きな古時計」をカヴァーするなど、過去の歌を現代風に手直しして再利用するという手法がしきりに使われているし、昔の子どもの遊び道具だったビー玉やヨーヨー、ベーゴマといったものが、それぞれ「ビーダマン」「ハイパーヨーヨー」「ベイブレード」と名を変えて、アニメやマンガを通じて現代の子どもの遊び道具として人気を集めている。マンガと言えば、かつて一世を風靡した「巨人の星」や「あしたのジョー」といった作品が復活したり、「キン肉マン2世」などかつてのヒーローの2代目が誕生したりしているし、最近のお菓子ではおまけの入った「チョコエッグ」や「野球チップス」といったものが、大人たちに評判だという。私が最近目にしたのは、なんと「チョロQ」の実物大が販売されるという新聞記事だった。これをレトロブームと言わずして、何と言えばいいのだろう。これはもはや、ある一部の分野における一過性のものではなく、今の日本全体を取り巻く大きな現象だと言っても過言ではあるまい。

 人々の視点が未来にではなく、過去に向けられている、というのは、逆に言えば未来に対して明るい展望が築けないでいる、ということでもある。それまで絶対だった価値観がいともたやすく崩壊し、政治も学校も銀行も、そして隣に住む人間までも信頼できなくなり、閉塞感と束縛感、そして常に何かに急き立てられているかのような切迫感に息も詰まりそうな今の世の中で生きる者たちに、「未来を信じて生きろ」と言うのは、あるいはあまりに酷な注文なのかもしれない。では、今の暗澹たる日本を担わされている、私も含めた世の大人たちがしきりに回顧する「過去」には、いったい何があったのだろうか。

 本書『駄菓子屋楽校』は、今はもう過去のものとなりつつある「駄菓子屋」という小さな店が、社会の中でどのような役割を果たしていたのか、というテーマに取り組んだ著者の現代社会論であり、また教育論でもあるのだが、この一風変わった評論の大きな特長のひとつとしてあるのは、過去に属する「駄菓子屋」を扱うことが、今の日本が抱えているさまざまな問題――私たちが日頃から「何かがおかしい」と感じていながら、あまりに漠然としてしまっているがゆえに、もやもやとはっきりしない不安や不満となってわだかまっている問題をはっきりとした形として提示するダイナミズムであろう。

 駄菓子屋とひと口に言っても、それを明確に定義するものは何もない。本書によれば「子どもが認知した店が駄菓子屋なのだ」ということになる。私の子どもの頃といえば、第二次ベビーブームに代表される高度経済成長まっしぐらの時代であり、すでに私たちのまわりには所謂「駄菓子屋」は存在しなかったのだが、かろうじてその名残をとどめていた店として私の記憶に残っているのは、じつは酒屋さんだったりした。それも、本書を読んではじめて「ああそういえば」と思い出したものだ。大人にとっては酒屋だったのだろうが、子どもの私にとって、そこはこまごまとしたお菓子が並べられ、アイスの「当たり棒」を取り替えてくれる「駄菓子屋」だったのだ。

 駄菓子屋とはどこから生まれたものなのか、かつての子どもたちは、どんな目的があって駄菓子屋に集まってきたのか、子どもたちによって定義される駄菓子屋が街から姿を消して、世の中はどのように変化したのか――本書を読んでいてわかってくるのは、今の世の中があまりにも無駄を排除し、合理化を推し進め、資本主義という名の競争主義を導入していった結果が、人々を精神的なストレスで苦しめることになってきたのではないか、という問いかけである。10円20円の駄菓子屋の「駄」は、必ずしも「無駄」を意味するものではない、というのが著者の主張のひとつである。そして子どもを教育する、というのは、学校で授業を受けさせることだけでなく、学校の外で体験して学ぶことも重要なことなのだと説く著者にとっての「駄菓子屋」とは、「学校」の対極を成すものすべての象徴でもあると言えよう。

 かつて、駄菓子屋(子どもみせ)は、放課後の「子ども世界」のキーステーションだった。駄菓子屋を調べることで子どもの世界を知ることができ、そこから現代の子ども問題とその解決策を探ることができる。

 駄菓子屋という「過去」の要素を取り扱っていながら、著者の視点は常に未来に向けられている。駄菓子屋の風景として有名なのは、その店の名物とも言えるやさしいおじいさんやおばあさんの存在であろうが、老人によって営まれる、商業利益からは外れたところにあるあいまいなお店である駄菓子屋が、じつは子どもたちの「生きた社会的な学び」の場であったとするなら、駄菓子屋を見据えることによって未来が見えてくるのは、むしろ当然だと言えよう。なぜなら、子どもというのは世の中の未来を担う者であるからだ。

 おそらく本書の著者は、けっして学術的に確立しているわけではない駄菓子屋の断片的な情報を集めていきながら、まるで子どもたちが、大人の目から見たらゴミでしかないようなものを夢中になって集めるのと同じような感覚を味わっていたのではないだろうか。本書では、駄菓子屋の雑多な空間を指して「子どもマンダラ空間」と名づけているが、本書のなかの雑多な情報の収集物は、立派な「マンダラ空間」を形成している。本書を読むことによって起こる興奮があるとすれば、それは駄菓子屋に足を踏み入れたときに起こるそれと同義なのだ。

 そして著者の活動は、じつは駄菓子屋の研究だけで終わるわけではない。学校が土曜日を休みと定めたときに、著者は遊びと学びの屋台として「だがしや楽校」をじっさいに開くなど、研究を現実の生活の場で生かしていこうと積極的である。学んだことを世の中で生きていくために活用する、というのも、けっして学校に隔離して「教育」をほどこすだけでは実現できない大切な「学び」から生まれてくることであろう。そういう意味では、著者もまた「ダガシヤ・チルドレン」のひとりなのだ。

 現代のレトロブームは、もはや新しいものを生み出すことに倦み疲れた現代人たちによる、心の癒しを求める叫びなのか、あるいは自分たちがこれまで切り捨ててしまった「無駄なもの」のなかから、何か大切なものがなかったか、という振り返りの時期を象徴するのか――いつも「忙しい」ばかり言っているような人にこそ、時代の流れとは逆行するような本書の、のんびりとした雰囲気をぜひとも味わってもらいたいものである。(2002.11.15)

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