【講談社】
『ダブ(エ)ストン街道』

浅暮三文著 



 ある場所にいるある人物に会いたい、と思う。それを実行するためにどうするだろう。まず地図を見て、自分のいる場所と目的地を確かめ、なんらかの交通手段で(あるいは徒歩で)目的地へと目指す。どこかの大陸のどこかの国のどこかの町のどこかの通りのどこかの一軒家。目的地に近づくたびに、地図はおおまかなものから詳細なものへと変えられる。もしどうしてもわからなければ、誰かに声をかければいい。たぶん、誰かが知っているだろう。
 だが、その人物が、地図にも載っておらず、それゆえに道も確保されておらず、わかっているのは伝承めいた記述のみ、という場所にいる場合、どうしたらいいだろうか。

 本書のタイトルにもなっている『ダブ(エ)ストン街道』とは、「赤道の南のどこかにある」と言われる島の名前で、記述によって「ダブストン」だったり「ダブエストン」だったりする、場所も名前も極めてあやふやな場所のことらしい。極度の夢遊病であるタニアの失踪先がそのダブ(エ)ストンであることをつきとめた主人公のケンが、ダブ(エ)ストンを探しているうちに乗っていた船が難破し、遭難の末に偶然たどりつくところから物語は始まる。

 動物が人間のことばを使い、王様だの駅伝ランナーだの半魚人だの突拍子もないキャラクターが次々と登場するこの物語は、ふと『不思議の国のアリス』を連想させる。だが、『不思議の国のアリス』があくまで夢の中の世界であり、何の脈絡も整合性もない世界が展開されているのに対して、『ダブ(エ)ストン街道』では、あるひとつの法則に支えられている世界である。誰もが迷っていること、そして迷うことが日常であること――それゆえに、突拍子もない話であるにもかかわらず、何の違和感もなくすんなりと感情移入し、読みすすめていくことができる。こんな物語も珍しい。

 いわゆる「秘境探検もの」のように、スリルとサスペンスあふれるハラハラドキドキの冒険活劇ではない(誰もが迷子なのだから、当然と言えば当然なのだが)が、迷うことが日常であるがゆえにあらゆる境界も、道も、標識も、そして時の流れさえ何の意味も持たず、脱出する方法もさだかでないこの世界のなかで、それでも悲嘆にくれることなく順応している登場人物たちの姿に、読者はなぜか安堵に似た感じをいだくだろう。まず目的地があり、そこへいかに早く着くかが重視される現代に生きる私たちにとって、迷うことが日常であるダブ(エ)ストンの世界は、あるいはとても贅沢な世界なのかもしれない。

 ケンははたして恋人のタニアを見つけることができたのか、自分の目でぜひ確かめてほしい。(1998.10.24)

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