【原書房】
『冬空に舞う堕天使と』

リサ・クレイパス著/古川奈々子訳 



 男はプライドの生き物だ、ということを私はこの書評をつうじて何度か書いてきたが、それが男女間の関係に適用されたとき、男のプライドはつねに「女を所有する」という方向に向かうことになる。ようするに、自分の彼女には自分だけを見ていてほしい、という欲望であり、たとえば恋人だったはずの女性がほかの男とも関係を結んでいたとなれば、「女を所有する」という男のプライドは大きく傷つけられてしまう。男は惚れた女が、自分だけのものであってほしいと願わずにはいられないのだ。妻や恋人に暴力をふるったり、あげく殺してしまったりする男の心理には、女性への所有欲が絡んでいると言える。

 いっぽうの女性の場合、自分は男に愛されている、恋愛感情で結ばれているという認識に重きを置く傾向がある。男が「女を所有する」ことを求めているのと同じように、女は好きになった男との関係が、いつも変わらずありつづけていることを求める。だからこそ女性は、男に何度でも「愛している」と言ってほしいし、その証拠をさまざまな形で求めずにはいられない。男にとって女との関係は、一度モノにしてしまえばそれがあたり前という感覚が先に来てしまうのだが、何より関係性を重要視する女にとっては、その関係が維持されているという確信こそが大切なのだ。

 男が女に対していだく恋愛感情と、女が男に対していだく恋愛感情は、けっして同種のものではない。これまで二作ほどロマンス小説と呼ばれる作品を読んできたが、いずれもこの男女の恋愛における差異をきちんと意識している、という印象を受けた。そしてロマンス小説が、女性が主体となって男性と結ばれる話であると仮定したときに、どの時点が最終的なゴールになるのかと言えば、それは男に自身への愛情を認めさせることに尽きる。今回紹介する本書『冬空に舞う堕天使と』に登場するエヴァンジェリン・ジェナー、通称エヴィーは、物語の冒頭でいきなりある男性に自分との結婚を迫っているのだが、結婚や出産といった世間的イベントが、けっして物語のゴールではなく、むしろ通過点にすぎないというのも、ロマンス小説のひとつの特長だと言える。

 エヴィーが結婚を迫った相手、セントヴィンセント卿セバスチャンは公爵の爵位をもつ父の跡取り息子であるが、その財政はすいぶん前から貧窮の極みにあり、友人の婚約者の誘拐を企てるという愚行をしでかしてしまうほどに逼迫していた。その美貌と女をたらしこむテクニックで何人もの女をものにしてきた、しかしこのうえなく利己主義で恥知らずな男――だが、追い詰められていたのはエヴィーも同様だった。賭博クラブを経営する父の財産を狙う親戚たちの魔の手から逃れ、病の床に伏している父のもとに向かう自由を得るためには、それなりの地位をもつ男と結婚し、その家の一員になるという方法しか思いつかなかったのだ。

 つまり、この結婚話はお互いの利益が一致するからこそ意味のある、あくまで便宜上のものであって、そこに愛情など欠片も存在しないものなのだ。しかもエヴィーは生来の引っ込み思案なうえに、しょっちゅう言葉がつかえてしまうため、周囲からはどんくさいと思われている女である。セバスチャンはきっと女としての自分に何の魅力も感じないだろうし、私もまた彼が何を思い、どんな行動をとろうとも気にしない、少なくとも、今より状況が悪くなることはありえない――だが、そんな彼女の予想に反して、セバスチャンは結婚式を挙げるためのスコットランドへの道中において何度も彼女の身を案じ、さらには男としての欲望さえ見せた。そしてそれは、何より彼自身を困惑させるものでもあった。

 セントヴィンセントははっと息を飲んで、頭を上げ、彼女を見つめた。まるで彼女がこれまで見たことのない生き物であるかのように。「なんということだ」彼は小さな声でつぶやいた。彼の顔にあらわれていたのは、満足感ではなかった。それは警戒に似た表情だった。

 セバスチャンのエヴィーへの執着心は、じつのところ彼女との結婚初夜――エヴィーが一度だけは床をともにすると宣言した夜あたりから、かなりはっきりとした形で表われてはいる。ふたりはその後ロンドンに戻り、エヴィーの父が経営する賭博クラブ「ジェナーズ」に滞在することになるが、エヴィーの父の病が肺病であることを知れば、その菌が彼女に移ることを怖れてできるだけふたりを引き離そうとするし、後に彼がクラブの経営に手腕を振るうようになっても、けっして上品とはいえないクラブにエヴィーが居座ることで、彼女の身に危険が及ぶのを気にして自身の屋敷に戻るように言い含めてもいる。なにより、エヴィーを連れ戻しに来たメイブリック家の者を、体を張って叩きのめしてしまうほどの気概を見せるし、物語の後半では、自分の命を危険にさらしてまでエヴィーを狙う銃弾から守ろうとした。

 だが、そのいっぽうでセバスチャンは、以前の自分自身――尊大で傲慢で、いつも冷ややかな態度で女性をモノにしては捨ててきた自分のスタイルに固執し、自分のなかにたしかにあるエヴィーへの執着心をなかなか認めようとしない。そうした頑なさは、自分の容姿や器量に自信をもてずにいるエヴィーにしても同様なのだが、そこから相手がたしかに自分を求めている、必要としてくれているという想いに気づき、その気持ちに素直になるのは、常に女性のほうである。そしてこの瞬間から、物語はいつセバスチャンが自身の心に素直になるのか、という一点に集約されていくことになる。それは容姿の良さや美貌、さらには女を悦ばせるテクニックで相手を支配し、常に自身が優位に立つという見せかけの恋愛ではなく、相手と対等な立場となってお互いに足りないものを補い合う、真の意味での恋愛を――そのかけがえのない価値をセバスチャンに認めさせることでもある。

 これまで読んできたロマンス小説のなかで、ヒロインと結ばれることになる男性は、たとえば野獣と呼ばれていたり、脱獄犯として恐れられていたりと、何らかの理由で不当に貶められ、それゆえに不遇をかこってきた。そしてそれゆえに、なかなか相手のやさしさや愛情に素直になれないという共通点をもっていた。言ってみれば、彼らは自身の男としてのプライドを保つために、「女を所有する」という形をもってヒロインと接しようとしてきた、ということである。だが、それは女性が考える恋愛の形とは微妙に異なるものだ。そして、ヒロインが幸せをつかむためには、そうした男の恋愛感情が優位なままでは成立しない。そういう意味で、本書はまさに女性が男性の愛情を勝ちとることが最終的な目的として書かれる物語であり、またもっとも王道的なロマンス小説だと言うことができる。(2009.12.07)

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