【新潮社】
『通訳ダニエル・シュタイン』

リュドミラ・ウリツカヤ著/前田和泉訳 



 私たちひとりひとりがもちうる主観的世界はごくちっぽけなものにすぎず、しかも年月とともに柔軟性を欠いていく。それまでずっとそのようにあった、信じつづけてきたという、ただそれだけの理由で、私たちは既存の価値観にしがみつき、そこに安泰することを望んでしまう。そういう意味で、「継続は力なり」という格言は一種の真理をついているが、それは一歩間違えれば周囲を省みずに猪突猛進していくことの愚かさと紙一重でもある。

 世のなかにはさまざまな価値観をもつ人たちがいる。宗教的にはあまり節操がないと言われる日本人の私には今ひとつ実感に欠けるところがあるものの、その人がどんな宗教を信じているかという情報が、人との付き合いにおいてかなり重要な指針たりえることは理解しているつもりだ。だが、たんに理解しているということと、それが自身の現実的な問題となって立ち表われてきたときに、自分がそれとどう向き合えるのかは、また別の問題である。長く尊敬していた友人が、ある新興宗教の信者だとわかったとき、はたして私は以前と同じように彼を尊敬しつづけることができるかどうか、はなはだ疑問だと言わなければならない。なぜなら、その事実は私にとってはまったくの未知のものであり、そして未知のものとは、えてして人を恐怖させるものでもあることを、私はよく知っているからだ。

 私たち人間は、それぞれがちっぽけな主観的世界の孤独な住人であって、そうである以上、他人を完全に理解することは――たとえ、その人があなたにとってどれだけ親しく、大切な人であったとしても――不可能である。だが、その事実をもって他人を理解しようとする努力を放棄することは、まさに自分がまぎれもない人間であることの放棄と等しい。古今東西、価値観の相違から起こったさまざまな悲惨な出来事は、一方が他方を同じ人間として見なすことを放棄することから生じているのだ。

 私は生涯ずっと考え続けてきた。どうして世界は無理解に満ちているのだろう、とね。あらゆるレベルでそうなんだ!――(中略)――ある階級は必然的に別の階級を憎むはずだなんて、カール・マルクスの考え出したことさ。実際には、「憎む」のではなく、「理解していない」んだ。

 今回紹介する本書『通訳ダニエル・シュタイン』は、そのタイトルにあるとおり、ダニエル・シュタインという名の男が物語の中心にいる。だが、その中心に位置するはずの彼のことをきちんと説明するのは、ひどく難しい。それは、本書の構成の基本が誰かに宛てた手紙やメッセージ、何らかの報告書やメモ書き、あるいはある人物へのインタビューの録音テープといったものの寄せ集め、という体裁をとっており、作中に登場する著者本人が言及しているように、さまざまな登場人物の人生の断片を張り合わせた「コラージュ」のようなものであることも一因ではあるが、それ以上にダニエル自身の身の振り方、その生き方の根底にあるものが、多くの人を戸惑わせる要素をはらんでいるからに他ならない。

 ダニエルはポーランドのユダヤ人一家に生まれたが、ドイツ軍のポーランド侵攻とホロコーストに代表されるユダヤ人狩りの波が、彼の運命を大きく変えることになる。年老いた両親と別れ、たったひとりの兄とも離れ離れになったダニエルは、その後何度も奇跡としか言いようのない幸運を拾ってユダヤ人狩りを生き延び、大戦中にはユダヤ人であることを隠し、ゲシュタポでナチスの通訳として働くことになる。もともとドイツびいきのオーストリア軍人だった父親に育てられた彼は、ドイツ語を流暢に話すことができたのだ……。

 こうしたダニエルの数奇な生い立ちについては、物語の冒頭から明らかにされているわけではない。たとえば冒頭に書かれているのは、エヴァという女性とその母親のリタとの不仲についてだ。彼女もまたポーランド系ユダヤ人なのだが、母親は当時共産党一筋で、幼いエヴァを孤児院に預け、反ナチス抵抗組織に参加して戦っていたという気骨の人である。友人の誕生日の祝いの席で、エヴァはエステルという女性と知り合うのだが、彼女はリタのことをよく知っていた。そして荷重の彼女をふくむユダヤ人三百人を、ドイツ軍の殲滅作戦に先立って脱出させたユダヤ人通訳のことも。その通訳こそがダニエルであり、こんなふうにしてダニエル・シュタインという人物の一側面が見えてくるのだが、ユダヤ人でありながらゲシュタポに勤務していたという事実と、にもかかわらず、自身の身の危険を顧みず、多くのユダヤ人の命を救うという偉業を成し遂げた大戦の英雄であるという二律背反が、すでにここで見えてくることになる。

 ダニエルがどのような経緯でゲシュタポの通訳となったのか、その背景にどのような意図があったのか、という点は、じつはさほど重要ではない。重要なのは、そんな複雑な過去をもつ彼が戦後、カトリックに改宗、神父としてイスラエルに渡り、キリスト教の宗派はもちろん、さらには宗教の違いも超えるような宗教をめざして教会を建てたという点にこそある。

 私たちにとってはあまりピンと来ないところがあるかもしれないが、ユダヤ人でありながらユダヤ教ではなくカトリックを信仰し、かつイスラエルに入るさいに自身を「ユダヤ人」だと称しようとしたことは、こと宗教に関して複雑な事情をもつイスラエルにおいて喧々諤々の議論があったと書かれており、新聞にも報じられるほどの大きな問題であったことからもうかがえるのだが、ともするとユダヤ人から裏切り者扱いされるだけでなく、カトリックからもイスラム教からも敵と見なされうるような境地を招いてまで、ダニエルがイスラエルの地で成し遂げたかったことは何なのか――それこそが、本書を貫く大きなテーマであり、またその点からダニエルの過去を振り返ることで、また違った彼の姿が見えてくることにもなる。

 私は誰かを導きたいとは思わない。誰でも自分が見出した道を通って神の後に従っていけばいい。私たちが一緒に集まるのは、愛を学び、神の前で共に祈るためであって、神学論争をするためじゃない。

 宗教の問題というのは、たとえば同じキリスト教であるにもかかわらず、カトリックやプロテスタント、正教といったふうに分裂し、お互いの信仰が誤りだと糾弾しあい、それでなくとも他宗教の信者の存在を認めず、血で血を洗うような紛争さえ引き起こしているという現状を考えれば、読者にとってもけっして軽々しく扱えるような問題でないことは言うまでもない。だが、本書を読み進めていくことによって見えてくるのは、ダニエルはたしかにカトリックの信仰におのれの道を見出したものの、それは自分の信仰が絶対のものと見なしているわけではない、ということである。むしろ人間の心のうちにある多様性を認めたうえで、それと共存するための核となるものこそが大切だと彼は説いているのだ。そしてその原点として、彼がその身をもって体験したホロコーストがある。本書のなかにはっきりとは書かれていないが、それはユダヤ人という民族への無理解ゆえに起こった悲劇であることを、彼はきちんと見抜いていた。

 相手を理解するということは、まず相手が自分と同じ人間であることを認めるということでもある。その精神がなくなったとき、人は同じ人に対してどれほど非道なことでもできてしまう。本書はさまざまな人たちの人生の断片を貼り合せたコラージュであると上述したが、そこには息子がホモセクシャルであることを悩む母親や、急にカトリック信者になる決意をした老女、ナチスに属していた父親と、ドイツ人が犯した罪を嘆き悲しむ女性、アラブの伝統から解き放たれたいともがく若者、ロシア正教の司祭になりたいと望むユダヤ人など、じつに多彩な問題が提示されている。そしてこうした多種多様な価値観をもつ人たちが、ただひとつ、ダニエル・シュタインという人物によって結びつけられているというのは、よくよく考えてみれば大きな驚きでもある。なかには、彼の信仰が背信行為であると弾劾する者の文章や、彼の思いを曲解したあげく、絶縁を宣言する旨の手紙といったものも含まれているのだが、そうしたものをすべてひっくるめて、ダニエルはかぎりない寛容と共存の心で受け入れているのだ。

 本書の訳者あとがきにもあるように、ダニエルが職業としての「通訳」であったのは、ゲシュタポ時代だけであり、それよりはカトリックの神父としての期間のほうが圧倒的に長い。にもかかわらず、そのタイトルに「通訳」という言葉が入っているのは、「無理解」で満ち溢れたこの世界において、神と人、あるいは人と人とのあいだを橋渡しすることに、その生涯をかけた彼の生き様が、より精神的な理解をうながす「通訳」でありつづけたからに他ならない。人を愛するということ、理解できないものに背を向けるのではなく、理解しようと努めるという、単純でありながらこのうえなく難しい命題に正面から向き合った本書を、ぜひ最後まで読んでもらいたい。(2010.02.20)

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