【白水社】
『野生の探偵たち』

ロベルト・ボラーニョ著/柳原孝敦・松本健二訳 

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 これまで本サイトにおいて、詩集の書評というものを何作か行なってきたことがあるが、そのたびに思うのは、およそ詩という表現形式ほど、何らかの説明や解釈といったものを拒むものはない、ということである。もちろん私は詩の専門家ではないし、また詩が言葉による表現である以上、何らかの形で評価することもできるのだろうが、小説よりもさらに形式にとらわれることなく、自由に言葉を紡いでいける詩は、そこにどのような意味があるかということよりも、その言葉のつらなりが読み手に何を連想させ、どのようなイメージを想起させるかという点こそが真骨頂だ。逆に、詩や小説のなかに強烈なスローガンや主義主張が混じってくるとすれば、それはもはや詩と呼べるようなものではない――というのが、あくまで私のなかにある詩の解釈であるが、もちろん、そうしたものを含めて、あらゆる解釈を許容する自由さこそが、まさしく詩の定義であるという見方も当然できるし、またその自由を否定すべきでもない。

 書評というものは、ある作品の評価という定まった性質をもっていながら、究極的には書評を行なう側の自己主張であり、個性のアピールでしかない。それは人間が主観の生き物である以上、ある程度は避けられないものであるが、詩の場合、より積極的に個人の捉えかたに依存されていくものだ。人によって、それこそいくつもの捉えかたが発生しうるし、むしろそうした数々の印象を内包しつつ、そこに優劣や正誤といった判断を持ち込め得ないもの――そういう意味においても、詩とは自由なものだと言うことができる。

 今回紹介する本書『野生の探偵たち』は、あるふたりの若い詩人をめぐる物語である。だが、仮に本書を最後まで読み終えることができたとしても、彼らがそもそも何者で、何をなそうとしていたのかを完全にとらえることは難しい。その理由のひとつとして、間違いなく本書の中心人物でありながら、彼らを直接主体として進むことのない本書の構成がある。アルトゥーロ・ベラーノとウリセス・リマ、彼らのことを語るのは、あくまで彼らと何らかの形で接点をもったり、そばにいたりした人たちであって、けっして彼ら自身ではないからだ。

 冒頭にあるのは、ある大学生が書いたと思われる二ヶ月間の日記の内容である。日記の書き手であるフアン・ガルシア=マデーロは、法学部の学生でありながら、じっさいには詩作にうつつをぬかす文学青年であり、潜りこんでいた文学部の詩作ゼミの授業でアルトゥーロ・ベラーノとウリセス・リマと出会うことになる。彼らは「はらわたリアリズム」の詩人であり、ガルシア=マデーロもまた彼らのグループに加わることになるのだが、じっさいに「はらわたリアリズム」というグループが何を目的としていて、どのような活動をしているのか、どうにもはっきりしない。もちろん、詩作のグループではあるのだが、純粋な文芸サークルというわけでもなく、なにやら麻薬の売買といったきな臭い噂が流れていたりするのだが、それでも本書を読み進めていくと、もともと「はらわたリアリズム」とは、その前身となるものがかつて存在し、ふたりはその創始者ともいうべき女性詩人のことを調べようとしていることがかろうじて見えてくる。

 日記そのものは、ある女性の男女関係のトラブルに巻き込まれるような形で、ふたりの詩人がメキシコ連邦首府から逃亡するところで終わっているのだが、それは逃亡であると同時に、探索の旅のはじまりでもあった。本書にはこうした、複数の意味合いを含ませるような要素があちこちにちりばめられており、またそれこそが本書の本質を成しているところがある。じっさい、物語は彼らの行方を直接追うのではなく、何人もの彼らの関係者から、インタビューという形で語らせることによって、その足跡を辿ろうとするのだが、見えてくるのは「はらわたリアリズム」の詩人としてのふたりではなく、むしろその語り手たちの強い主観であり、そこから立ち上がってくるふたりの逃避行は、それこそ世界をめぐる幻想めいた冒険譚のような様相を帯びてくることになるのだ。

 すると彼らは言った、冗談なんだよ、アマデオ、詩ってのは何かとても真剣なことを覆い隠す冗談なんだ。

 上述の引用における「彼ら」とは、アルトゥーロ・ベラーノとウリセス・リマのことであり、彼らが女流詩人セサレア・ティナヘーロのことを知るアマデオ・サルバティエラなる人物のもとを訪れたさいに語った言葉でもあるが、これはある意味、「はらわたリアリズム」の本質であり、同時に本書の本質を言い当ててもいる。はらわたとは、生物の内臓のことであり、これらの臓器がなければ人間は生きていけない、という間違えようのないリアルがある。だが私たちは、自分たちのなかにあるはずのその臓器の存在をふだん意識することはないし、また取り出して眺めてみることもできない。あくまで間接的な手段でしかその存在を認識することのできない「はらわた」について、それでもその圧倒的なリアリティを表現するために、どのような手段があり、どのような方法をとるべきなのか――「はらわたリアリズム」とはつまるところ、そういうものだと言うことができる。

 本書におけるアルトゥーロ・ベラーノとウリセス・リマは、その本質を見ることも、触ることもできない「はらわた」だ。だからこそ著者は、そんな彼らのリアルを語るために、さまざまな人物のフィルターを重ねていくという手法を採用した。どれだけ言葉を重ねても、おそらくその本質に届くことはない。だが、さまざまな人物のさまざまな言葉によってつづられていく「はらわたリアリズム」の詩人の姿は、リアルかどうかという視点から読者を解放し、より自由奔放な領域を垣間見せてくれる。そしてそれは、まさに詩という表現形式が内包する自由そのものでもある。さらに言うなら、本書の最初と最後に登場する日記の書き手であるガルシア=マデーロは、詩の形式や知識については人一倍詳しいが、詩作そのものには才能がない人物として書かれており、およそ詩人という人種の対極に位置している。彼は言ってみれば、説明できないものをなんとか説明しようとする道化の象徴としても機能しているのだ。

 キャンプ場の夜警として登場したアルトゥーロ・ベラーノ、牢屋のなかで出会ったウリセス・リマ、船員としてはたらきつつ海を渡るふたり、あるときはパリの安アパートで乞食同然の姿でいるかと思えば、アフリカの紛争地域で伝説的なカメラマンと行動を共にする彼らがいる。1975年の年末に姿を消したふたりの詩人のその後について、何が正しく、何が間違っているかという視点は、そもそも本書を評するにおいては的外れなものである。詩の言葉のイメージが無限に広がっていくのと同じように、ふたりの詩人の探索の旅は、現実と虚構の境を越えて、豊穣な物語世界を形成していくことになる。はたしてあなたは、本書のなかにどのような世界を目にすることになるのだろうか。(2010.12.05)

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