【講談社】
『深い河』

遠藤周作著 



 あなたは何かのために祈りをささげたことはあるだろうか。
 私は特定の宗教の信者ではないし、祈りと言えば、せいぜい盆に実家に帰ったとき、先祖の墓の前で手を合わせる程度のことしかやったことのない人間だが、少なくとも、絶望のどん底に陥ってしまった人や、どうしようもない不幸や悲しみに見舞われてしまった人たちが、人間や、人間が生み出した文化とか科学とかいったものではない、何か大きなものに、救いを求めるかのように祈らずにはいられなくなる瞬間というのが、たしかにあることを知っている。それは、自分も含めた人間という存在が、あまりにもちっぽけで無力な存在であることを悟りにも似た境地で知ることであり、人間が人間である以上、背負わなければならない欲望や罪、痛み、苦悩――そうした現世の苦しみから解放されたいと純粋に願う気持ちでもある。そして、私はこの書評を書きながら、思わずにはいられない。こうした人々が抱く祈りの気持ちを、はたして不完全な人間の使う不完全な言葉で、どう伝えることができるのだろうか、と。

 本書『深い河』は、まさにそうした「祈り」を読者に伝えるために書かれた物語だと言うことができるだろう。祈り――それはおそらく、どんな形の宗教であれ持ち合わせているであろう信仰の証であるが、本書に書かれた祈りとは、けっして特定の宗教に限定するためのものではない。人間によって解釈され宗教として確立される以前の、もっと原初的なもの、人間の根源的なところから湧き上がってくる作用のようなもの、と言えばいいのだろうか。呼び方は、あまり重要ではない。何なら「玉ねぎ」と呼んでもいいのだ。本書の中で大津という落ちこぼれの神学者が、キリスト教の神のことを「玉ねぎ」と呼んだように。

「人種の坩堝」というと、私たちはまずアメリカ合衆国を思い浮かべるが、宗教的に、あるいは階級的に、種々雑多なものが渾然一体となっている、という意味では、インドのほうがその名にふさわしいだろう。人口約八億、中国に次ぐ膨大な数の人民を抱えた国。仏陀が生まれ、仏教が発祥した地であり、国旗に仏教のシンボルである法輪を描いておきながら、国民の大部分がヒンズー教徒である国。華麗な寺院をはじめ、きらびやかな文化を持ちながら、同時に核兵器を保有し、国内国外を問わず宗教対立の火花が絶えない国、インド――善と悪、聖と邪、生と死、富と貧困、快楽と苦痛といった、ありとあらゆる矛盾を内に孕んだインドには、何があっても、何が起こっても不思議はない、と思わせる、混沌とした雰囲気に満ちている。

 本書は、そんなインドへ向かうことになる日本人たちの姿を描いたものであるが、彼らがその混沌の国に求めるものもまた、同様に漠然とした、混沌に満ちたものである。ある者は転生の奇跡を見出すために、ある者は真実の愛とは何なのかを知るために、ある者は死者の法要のために、あるものは動物への恩返しのために、そしてある者は、ただただ現世での利益のために――それは、日本のように真実が巧みに隠されているような国や、ヨーロッパのような、善と悪が完全に二分され、すべてが法と秩序によって厳格なまでに体系づけられてしまったキリスト教の国では、とても見つかりそうにないものでもある。そしてその混沌は、キリスト教という枠を超えた人類愛を求めずにはいられなかった、あまりに真面目で不器用な大津の心にも通じるところがある。

 少年の時から、母を通してぼくがただひとつ信じることのできたのは、母のぬくもりでした。――(中略)――母はぼくにも、あなたのおっしゃる玉ねぎの話をいつもしてくれましたが、その時、玉ねぎとはこのぬくもりのもっと、もっと強い塊――つまり愛そのものなのだと教えてくれました。――(中略)――現代の世界の中で、最も欠如しているのは愛であり、誰も信じないのが愛であり、せせら笑われているのが愛であるから、このぼくぐらいはせめて玉ねぎのあとを愚直について行きたいのです。

 大津はかつて、美津子の誘惑に負け、それまで信仰していた神を捨てたが、その罪に汚れることで、逆に美津子が「玉ねぎ」と呼んだ愛の働きを知るにいたる。彼はこのインドで、ヒンズー教徒にも、イスラム教徒にも、仏教徒にもその「愛の働き」を見いだし、それゆえにキリスト教徒としては異端者扱いされてしまう。だが、けっしてある宗教が信じる神の愛に限定されることのない、人間であれば誰もが心のどこかに持っている、言葉にできない愛を求める大津の信仰は、ある意味普遍的であり、またひとつの究極を指し示しているとも言える。宗教という枠の中で考えると、それはどうしても汎神論的な、何もかもをごちゃまぜにしてしまうものでしかないのかもしれないが、ならばなぜ、自分には人を愛することができないのではないかと悩みつづける美津子は、満たされない心の空虚をもてあましながら、その答えを、ガンジス河のほとりで行き倒れた人たちを運びつづける大津に求めるのだろうか。

 善と悪はけっして相容れないものであるかもしれないが、善人と悪人という区別は、必ずしも厳格な線引きができるわけではないことを、私たちは知っている。かつてビルマの戦場で、極度の飢えから人肉を食べてしまった木口の友人は、神の存在を信じる青年ガストンから、人肉を食べて生き残った遭難者たちの話を聞き、安らかな顔で死地についた。大津の罪や、食人という行為さえ受け入れてしまう神、あるいは「玉ねぎ」と呼ぶ「愛の働き」とはいったい何なのか、ということを、本書を読むにつれて、私たちはあたらめて考えざるを得なくなる。

 そして、物語は聖なるガンジス河へと読者を運ぶ。

 ガンジス河を見るたび、ぼくは玉ねぎを考えます。ガンジス河は指の腐った手を差し出す物乞いの女も殺されたガンジー首相も同じように拒まず一人一人の灰をのみこんで流れていきます。

 火葬された死人の灰がまかれ、死体そのものを流すその横で、輪廻転生からの解脱を願って沐浴する人たちで溢れるガンジス河――その河の深さは、ひとりひとりの人間が背負ってきた悲しみの深さであり、業の深さであり、また祈りの深さでもある。そして何千年のも長きにわたって、けっして絶えることなく流れつづけてきたガンジス河は、たとえ人の世がどのように変わっても、やはり同じように悠久の時とともに流れていくことだろう。その自然のダイナミズム――それはけっして、童話作家の沼田が考えているような、人間との生命の交わりをしてくれるだけのものではない、生に対する貪欲さにも満ちている――の前に、どんな宗教の語る愛を持ってきても、しょせんは人間によって解釈された不完全なものにしかならないのだ。

 驚くほど自分勝手でありながら、同時に他人のためにその身を犠牲にすることもできる、肉体と精神という最大の矛盾の混合物である人間の、聖なる部分も邪悪なる部分も、等しく許し、受け入れてくれる大きなもの――本書がささげる「祈り」とは、あるいはすべての生命をはぐくむ地球という名の「地母神」がもつぬくもりに対するものではないだろうか。(2001.04.03)

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